メッセージ   2002・8・18    小 石 泉 牧師

イザヤ書に見る神の愛−V



 あなたが子を失って後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言おう。『この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい。』と。そのとき、あなたは心の中で言おう。『だれが私に、この者たちを生んでくれたのだろう。私は子に死なれた女、うまずめ、亡命のさすらい者であったのに。だれがこの者たちを育てたのだろう。見よ。私は、ただひとり、残されていたのに、この者たちはどこから来たのだろう。』49:20〜21


 なんだか身につまされる、そして私にとっては切実にそうあってほしい御言葉です。

 
あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。50:10(口語訳)

前回の御言葉は神さまの圧倒的な愛と慰めに満ちたものでしたが、ここで少しだけ神さまの希望があらわれています。神さまはおずおずとご自分の小さな期待を述べられます。良いことだけを求めて、自分が気に入らないことは受け入れない、そういう信仰ですか?
時には暗く、苦しく、つらいことがあっても、神を神としてあがめるという雄々しい信仰はありますか? ただ良いことだけを求める信仰はまだ幼稚な信仰です。暗く光が見えなくとも神を何者かに代えられるでしょうか。信仰の成長。アブラハムのような信頼関係、それが本当の信仰です。

 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。
 いつもどこから救われたかを忘れないでいなさい。恵になれ、祝福を軽んじ、傲慢になり感謝を忘れることがないように。アブラハムもサラもわたしが呼び出し、わたしが祝福したのだ。そのように、わたしがあなたの神だ。
まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。51:1〜4


 この美しい言葉は今、現実のものとなりつつあります。そしてそれはあなたの心の状態でもあります。どんなに荒れ狂い、悲しみに打ちひしがれていても、あなたが神を求めさえすれば、あなたの心はエデンのように、主の園のようになります。あなたは地の塩、世の光となるのです。

主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。51:11

 回復。それが聖書の永遠のテーマです。何もなかった。天地は創造されたまま、人間は作られたままに平和だった。それでは神の愛と力、栄光と尊厳は現れないのです。一度堕落し、苦しみと悲しみと悲惨と残虐と死と地獄を見て初めて被造物は神を知るのです。
 贖われたものは、帰ってくるのです。初めから、何不自由なくそこに居たのではなく。だからこそ楽しみと喜びがわかるのです。
 こうしてイザヤ書はクライマックスを迎えます。53章はメシヤの預言として驚くべきものです。これがイエス・キリスト以前700年前に書かれたとは! だから不信仰な人々はイザヤ書がキリスト以後に書かれたのだといわないではいられなかったのです。しかし、それも死海写本によって木っ端微塵に打ち砕かれました。
ここは、あえて口語訳を使います。

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。53:1〜3


 イスラエル人の期待するメシヤは白馬にまたがった雄々しい勇士でした。しかし、イザヤはそれとは全く反対のメシヤを預言していました。その方は、「われわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。」イエス様を美しい衣装や金銀で飾った偶像に表すのはどんなに大きな間違いでしょうか。この方が最初に来られたとき、象牙のゆりかごには生まれなかったのです。彼は馬小屋の飼い葉おけの中に産声を上げました。そしてその生涯は、貧しい大工であり、社会の落ちこぼれの人々との交友でした。見るべき姿も、威厳もなく、慕うべき美しさもない。それは外側の姿でした。その内側は愛と真理に満ちた命だったのです。丁度モーセの幕屋が、その内側は金なのに外側は醜いジュゴンの皮だったことがそれを表わしています。
 彼は悲しみの人だったとイザヤは言います。彼は侮られ、十字架に着く前には唾され、鞭打たれ、罵声を浴びせられました。そして誰も彼を尊びませんでした。これはまさにイエス様その方を明白に表わしています。

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。53:4〜5


 しかし、彼は自分のとがのためではなく、私たちのために苦しみを受けられたのです。私たちはイエス様の鞭の傷と十字架の釘の傷と、それにも勝るゲッセマネの園での悩みによって罪から解放され、神に受け入れられ、永遠の命を受けたのです。私たちはイエス様の鞭の傷跡によって病を癒されるのです。

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。53:6〜8


 ピラトの前での裁判の間、イエスさまはピラトが不思議に思うほど沈黙していたと福音書にはあります。口を開いても誰が理解できたでしょうか。小羊のようにこの方はほふられました。

彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。53:9〜10


 新改訳聖書ではここは「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。」とあります。イエス様は二人の強盗と一緒に十字架にかけられ、墓は豊かな商人アリマタヤのヨセフの墓に葬られました。一字一句同じではありませんが、700年前にかかれたことを思うときにその正確さに驚くほかありません。

彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。53:11〜12

 私たち全ての人類の罪をその肩に負われて、イエス様は死に至るまで従順であられました。罪の全くないお方が、自ら進んで人類全ての罪を飲まれました。ゲッセマネの園で飲まれた杯は、ありとあらゆる罪の汚濁の杯でした。こうして「とりなし」がなされました。
 この53章は後から見ると、歴史上、全くあの方以外には考えられない正確さでメシヤを預言しました。だから数年前、イスラエルの大学教授が「聖書を読むと、あのヨシュア(イエス)はたしかにメシヤだった」という本を書き、それがベストセラーになったのも無理からぬことです。
 こうしてイザヤ書は神の愛について驚くほど雄弁に語っている書物であることが判ります。しかし、途中でいやになるほど味わいのきつい御言葉にも出会うのです。
 富山県を流れる糸魚川の河原では、時々、翡翠(ひすい)が見つかります。ある人は1000万円もする原石を発見しました。しかし、そのような翡翠に出会うにはいくつもいくつもの無駄に見える作業が続くのです。旧約聖書は、あまり楽しい書物ではありませんが、丹念に探してゆくと、このようにすばらしい御言葉に出会うのです。もちろん無駄な御言葉は一つもありません。自分にはその輝きがわからなくても別の人には特別な宝石の場合もあるのです。輝く宝石箱のような聖書。さあ、あなたも翡翠やダイヤモンドを探しにいきましょう。