メッセージ 2002・8・11       小 石 泉 牧師
 
イザヤ書に見る神の愛−U


今週も引き続きイザヤ書の中からすばらしい神さまの愛を学びましょう。

見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。42:1〜4

 これはイエス様の預言です。その中で特に「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」という言葉に注目しましょう。古い聖書では「痛める葦を折ることなく、煙ぶれる亜麻を消すことなく」とありました。
何を言っているのでしょうか。いたんだ葦、くすぶる燈心とは私たちのことです。弱い私たちの信仰であり、精神です。私たちの信仰や精神は今にも折れそうな、半分ちぎれそうな葦のようではないでしょうか。私たちの信仰や精神は今にも消えかかるろうそくの芯のようではないでしょうか。かすかにやっと保たれている、弱々しいものではないでしょうか。イエス様は「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」ルカ22:32 と言われています。自分は大丈夫だと言ったペテロはイエス様を知らないと言ったのです。私たちに対するこれほどの憐れみの言葉は無いでしょう。神様は私たちを良く知っておられるのです。
 
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。43:25

 この圧倒的な御言葉を堅く心に留めてください。「わたし、このわたしは、わたし自身のために」私たちの罪を拭い去り、もう思い出さないと、あの神が言われて、こうして永遠の文に書き残されたのです。私ならこの御言葉にしがみつきます。決してこれを離さず、永遠に寄り頼みます。3度もご自分を呼んで誓われたのです。これは重大な御言葉です。決して忘れないでください。

わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。45:4〜5(口語訳)

 神さまはたとえ私たちが神さまを知らなくても、名前を知って呼んでいるし、知らないと言い張っても、強くするといわれます。どこまでも、どこまでもイスラエルを愛する神。しかし、それは私たちを愛する神なのです。

わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。46:3〜4


胎内にいる時から、私たちを荷い、しらがになっても、神様はあなたを背負い運ぶと言われます。老後の心配はいりません。「わたしはそうしてきたのだ。」新改訳のこの箇所は面白い訳です。口語訳にはこのニューアンスはありません。

見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。48:10〜11

神さまに愛された人は必ずといって良いほど試みを受けます。これは私が実際に見てきた経験です。どうして? なぜ? 神さまを信じているのに。そういう思いが沸いてきます。それは悩みの炉です。私たちを清め、純粋にするために。悩みの炉で私たちは練られるのです。私たちは普通のままでは神さまの子となるには不純物が多すぎるのです。その試練に耐えられない人には与えられません。それを神さまはやはりここでも「わたしのために、わたしのために、わたしはこれを行う」と3度も誓われます。
よく語られる話を、まだ聴いたことのない人のために話しましょう。昔、ある宣教師が、インドの銀細工人のところで見物していました。銀細工人は銀の塊を炉に入れ、高温でそれを真っ赤になるまで溶かしました。そして表面に浮いてくる不純物をすくい取っては捨てるのでした。いつまでもいつまでもその作業をするので、とうとう宣教師はその銀細工人に、いつまでそうするのかと聞きました。すると彼はこう言ったのです。「この炉つぼの表面に私の顔が鮮明に映るまでです。」宣教師は神さまの御言葉の意味を悟りました。私たちが試みを受けるのは、私たちに神さまの御顔が鮮明に映るまでなのです。

あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。48:18(新改訳)

どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになり、48:18(口語訳)

 この箇所には口語訳と新改訳の小さな違いがあります。新改訳はしあわせと正義、口語訳は平安と義です。恐らく原語はそれぞれその両方の意味を持っているのでしょう。安らかな幸せは川のように、神の与える義は海の波のように私たちに来るというのです。
十数年前に多摩川の支流の小さな滝に行きました。ほとんど誰も知らない秘密の場所です。そのまま飲めるような、澄み切った水が流れていました。その滝つぼに入ると、真夏でも身を切られるような冷たい水が私の周りを流れて行きました。その水は尽きることなく、毎分毎秒、瞬間、瞬間に新鮮でした。私を潤した水は、もう次の瞬間には後に去り、もう次の新しい水が私を潤していました。私たちに与えられる平安やしあわせは川のようだとイザヤは言います。決して古い昔の平安やしあわせではなく、いつも、毎分毎秒新鮮だというのです。私たちは古い平安を思い出して自分を慰めたり、しあわせなときを思い出して励ましたりする必要は無いと神様は言われます。川のようにそれは新鮮です。それはいつもいつまでも新しいのです。もう次の平安やしあわせが私たちを包んでいるのです。正直な話、そんな新鮮な平安やしあわせが自分にあるのだろうかと思います。しかし、信じましょう。そしてこのような言葉を驚きと感謝を持って受け取りましょう。
また、私たちに与えられる神の義は海の波のようだとあります。九十九里浜で海を見ていたとき、繰り返し、繰り返し、押し寄せてくる波を見て、ふと、この波はいつ終わるのだろうと思いました。波は天地創造の日からこれまで片時も休むことなく、繰り返し、繰り返し押し寄せてきていました。そしてそれは天地の続く限り続くでしょう。
私たちに与えられる神の義も、これで終わりということはないのです。繰り返し、繰り返し、それは押し寄せてきます。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」ローマ5:20 とありますが、私たちの罪が許されてそれで終わりとは行きません。私たちはまた罪を犯します。それを神さまは繰り返し、繰り返し、許してくださいます。波打ち際に書いた文字が波によって消されるように、私たちの罪も消し去られ、神の義が再び与えられるのです。実になんとも手前勝手な解釈ですが、そうでなければ私たちは(私は?)救われません。救いはこのように確実で、終わり無きものなのです。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。49:15〜16

母親が自分の乳飲み子を、またお腹の中にいる自分の子を忘れることがあるだろうか、そんなことは絶対にない、しかし、たといそのようなことがあってもわたしはあなたを忘れないと、神さまが私たちに言っておられます! なんというねんごろな言葉、神さまは私たちに、なんという思いを持っておられるのでしょう。驚くほかありません。そして「手のひらに刻み付けて」私たちを覚えているといわれます。ただ唖然として神さまを仰ぐだけです。皆さんはこんな神さまの思いを知っていましたか? 私は時々、クリスチャンは神さまのこんな愛を知らないのではないかと思います。これは失礼な表現ですが、まるで片思いの人が相手に訴えているようにさえ思います。あなたはこんなに愛されているのです。さあ、勇気を出しましょう。あなたは神さまの注目の的ですから。