メッセージ 2002・8・ 4       小 石 泉 牧師
 
イザヤ書に見る神の愛−T


先週、久しぶりにお腹の休息に行きました。二泊三日の予定でしたが、今回はイザヤ書を読もうと考えていました。口語訳聖書では何度も読んだのですが、新改訳で通して読むのは初めてでした。久しぶりに読んだイザヤ書はやはりすごい書物でした。エレミヤは涙にペンを浸し、イザヤは炎にペンを浸したと言われますが世界の文学のどれにも負けない壮大、雄渾、高潔、高遠、高貴な文章です。
それにしても何と読みにくい書物でしょうか。1章から39章までを2日間で読んだのですが、途中何度も投げ出したくなりました。何と激しい神の失望、怒り、叱責。イスラエルの(結局は人類全ての)裏切り、罪に対して繰り返し、繰り返し語られる憤りの言葉の激しさ。それはまるで砂漠の舗装してない道路を走るような不快な長旅です。
ところがある時、突然、舗装道路のような快適な御言葉が現れます。それは輝くような美しい御言葉で、どんな文学も足元にも寄れない気高い香を放っているのです。それは何と天地創造以前のかすかな記憶から、キリストの最初の来臨、そして再臨を含んでその後の千年王国らしき情景まで語られるのです。これは本当に驚くべき書物です。
実はイザヤ書は一般に二つの部分に分けて考えられています。それは1章から39章までと40章から66章までです。章とか節というのは後年、中世に作られたものだと言うことですが、不思議なことにその内容が旧約聖書39巻と新約聖書27巻に匹敵するのです。ですからイザヤ書は小聖書とも呼ばれています。
20世紀の初頭、忍び込んできた偽キリストの学者たちが“聖書の高等批評”という学問を作りました。それはそれまで「盲目的に信じられてきた」聖書を歴史と科学で正しく評価しようと言う学説でした。結局彼らの目的は聖書を偽りの書物とすることでした。中でもイザヤ書は最も槍玉に挙げられた書簡でした。彼らはイザヤ書を第一、第二と分け、それぞれを別々の著者が別々の時代に書いたものと結論付けました。特にメシヤの予言の、あまりの正確さに、これはキリスト以後100年以上後に書かれたものだと言いました。しかし、1940年代に死海沿岸で見つかった死海写本のが紀元前100年ぐらいのものと推定され、その中にあったイザヤ書が現在のものと全く同じで、二つではなく一つであり、メシヤの予言もそのままだった事から、彼らは次第に沈黙して、いまではほとんど省みられなくなりました。
1章は神様のイスラエル人に対する怒りと失望から始まります。思わず首をすくめたくなるような激しい言葉です。しかし、これは一人イスラエルに対する言葉ではなく人類全体に関わるものです。総じて旧約聖書の言葉をイスラエル人に対するものだけに限定するのはおかしな事です。それなら旧約聖書はキリスト教会では読まれる必要なはないのです。しかし、旧約聖書が無ければ新約聖書もありえませんから、これらは二つとも全人類への神様の御言葉なのです。
そんな怒りの言葉のまだ途中で、神様の本音?が現れるのです。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。18 怒り狂うように装う神様の深い御心の中に、「本当はあなた方を罪なきものとして真っ白にしてあげたいのだよ」という本心が表れています。緋、スカーレットとは最も脱色しにくい色だと言います。しかし、そのような色でも雪よりも白くなる。紅のように赤くとも羊の毛のようになるとあります。羊の毛は外側は汚いですが、ちょっと掻き分けると真っ白です。私たちの罪深い心も雪のように洗われるのです。
そうしてまた舗装の無いガタガタ道が続きます。
5章1〜7節 ここは神様がどんな思いでイスラエルを選び、カナンの地に住まわせたかがぶどうの木と農夫にたとえられて実に巧みに描かれています。ここだけで一つのメッセージになるのですが今回は通りすぎるだけにします。それでも

「そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。……まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」5:3〜7 

という御言葉には切々と訴える神様の心の痛み、悲しみが読み取れます。これも人類全体へのメッセージです。「万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」(口語訳)どんな文学にも負けない内容と詩文ではないでしょうか。
7章14節は最も有名なメシヤの予言です。メシヤが処女から生まれること、インマヌエルと呼ばれることなど、重大な真理が書かれています。
9章6〜7節は良くクリスマスのときに読まれますがメシヤを正確にあらわす実に驚くべき予言です。
11章1〜9節になると単なるメシヤ予言ではなく、再臨後、千年王国の予言であろうと思われる言葉に出会います。

「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」11:6〜9

 単なる人間の社会の平和だけでなく、被造物全体の回復を歌ったこの個所は驚くべき言葉です。ここを読んでクリスチャンになったという人のことを聞いたことがあります。ここは35章と比べて読んでください。
14章12〜15節は珍しい神の天地創造以前の霊的な世界の確執を伝えています。ルシファーがどうしてサタンになったのかが少しだけ明かされています。ここはエゼキエル書28章と一緒に読むと判りやすい個所です。
こうしてごつごつした岩山の間の、花畑のようなすばらしい御言葉はほかにも沢山ありますが、しかし、総じて、あまり楽しくない厳しい書簡だと言えます。
ところが40章になると突然がらりと様子が変わります。岩だらけの道は終わり、なめらかな舗装道路のような、あるいはオアシスのような場所にわれわれは着いたのです。

「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。40:1〜3

 ここからは罪の許し、神の愛が注ぎ出される有様が書かれています。これは正に福音書です。バプテスマのヨハネが正確に予言されています。またイエス様も現れます。

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。40:11

 さて、そうして読み進むうちに突然41章の御言葉に出会いました。

 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。 わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。41:8〜14

 私はここから読み進むことが出来なくなりました。ここにしがみついたのです。一体、これは誰が誰に対して言っているのだろうか、と私は考えました。もちろん第一義的には、神がイスラエル人に対して言っておられるのです。しかし、私とは関係無いのだろうか。これは私に対する言葉ではないのだろうか。ちょうど私は今あるトラブルの中にありました。私には神の助けが必要でした。これが誰に対するものであったにしても、私はこの言葉を、私の言葉にしよう。神の約束は「激しく攻めるものがそれを得る」とイエス様は言われています。

「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」マタイ11:12

  「わたしのしもべ、。わたしが選んだ、わたしの友よ」と主は言われます。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と私に声をかけられます。そればかりか「見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。」と約束されたのです! 何と言う保証、何と言う約束でしょうか。他のどの神が私にこんなことを言ってくれるでしょうか。いや、人間でもこんなに親しく確実に保証はしてくれないのです。「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける。』と言っているのだから。」私は耳を疑います。神ご自身が私の手を握り、「恐れるな、わたしがあなたを助ける」と言われるのです! 
これはもちろん、あなたへの言葉です。あなたもこの御言葉をかけられているのです。「主は言われる、『虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。』」(口語訳)虫に等しい○○○○よ。ここにあなたの名を入れてください。神様は「あなたを助ける」と言われます。さあ、一切をこの神にゆだねましょう。あなたはこの方のしもべなのです。しもべはその主人の守りの中にあります。しもべはその主人の許しがなければ、他の人は何をする権利もありません。サタンにはあなたを攻撃する権利はありません。あなたの主人は永遠の神ですから。