メッセージ 2002・7・28 小 石 泉 牧師
羊飼いの見た詩篇23篇
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。23:1
今日は皆さんが良くご存知の詩篇23篇から、羊飼いと羊について学びましょう。これはもちろんキリストとクリスチャンを表わしているのですが、牧師と言う仕事についても学ぶところの多い御言葉です。実はこのメッセージは過去に何度もお話したのですが、このごろ聞いたことのない方々が多くいらっしゃると思いますので、もう一度お話しましょう。これは、いのちのことば社の「羊飼いの見た詩篇23篇」と言う本を基にしています。
羊が羊飼いに飼われるとき、持ち主は自分のしるしをその羊につけます。今のように完全に閉鎖された牧場でなく野原を放牧していたときにはこれは絶対に必要なことでした。牛なら焼印ですが羊の場合は耳を少しだけ切り、その持ち主特有のしるしをつけます。当然、それは子羊にとって痛みを伴います。しかし、その傷がなければ、羊は誰のものか判りません。同じように私たちもキリストのものとなるとき小さな傷を負います。それは親族からの無理解である場合もあります。友人との別れかもしれません。世の人とどこかで同じ行動ができないと言うことかもしれません。しかし、私たちがキリストのものであると言う事はいつかはっきりしなければならないのです。
さて、羊が乏しいことがないためには良い牧草がなければなりません。そのために羊飼いはいつごろ、どこに行けば、どういう草が、どういう状態であるかということを知っていなければなりません。知らない土地に行って、牧草がなかったでは群れは死んでしまいます。そこに行くまでにはどういう道がいいのか。野獣や農夫とのいざこざはないか。毒草はどこに生えているか。それらのことを良く知らなければなりません。
また、牧場で飼う場合は、持ち主はその牧場を4つに仕切ります。そして第1の牧場で草を食べさせ、そこが食べつくされないうちに2番目の牧場に連れて行きます。そうしないと羊は草の根まで食べてしまってそこは荒地になってしまうのです。第3、第4と回るうちに第1の牧場はまた草がはえているというようにします。このように羊のために牧者はいつも心を配っているのです。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。23:2
そうして豊かな草にありついて満ち足りた羊は横たわります。しかし、実は羊が横たわるのは多くの条件が満たされた時なのです。先ず良い草を十分に食べたとき。次にライオンやハイエナ、きつね、狼、ハゲワシなどの野獣の危険がないことです。これはうなり声や遠吠え、においでさえ羊に恐怖心を与えます。次に病気でないときです。羊には皮膚の中に卵を産むハエやジストマなどの寄生虫がつきます。これらの病気の時には薬を飲ませたり、オリーブ油に混ぜて塗ったりしなければなりません。このような障害がないときだけ羊は伏すのです。
羊は草についた朝露などの水で水分を補給しますが時には水場に連れて行かねばなりません。羊飼いはその水場も良く知っていなければなりません。連れて行く間に、踏みにじられた水溜りや、道端の水を飲むとジストマや他の病原体を飲んでしまうので羊に気をつけなければなりません。しかし、羊の中には羊飼いの言うことを聞かず、
どうしてもその水を飲むと我を張る羊も居るそうです。(これはその本に書かれている本当のことです)
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。23:3
豊かな牧草を十分に食べて、野獣の恐れもなく、健康でよく肥えた羊が伏していると、もう一つの危険があります。それはちょっとした野原のくぼみです。羊が何気なく寝返りを打って、そのようなくぼみに仰向けに落ちると、羊の足は細いので起き上がれなくなります。すると間もなく足から血の気が抜けてしまいます。羊はパニックになり、夏などは数時間で死に至ります。そのような羊をねらうハゲワシが空を舞っています。羊飼いは群れの中にそういう羊が居ないかを空も見ながら気をつけなければなりません。
そういう羊を見つけると、羊飼いはそこに行って声をかけます。「もう、大丈夫だよ、私が来たからね」。そして羊を起こしてやり、足をマッサージします。血が十分に戻ってきたところで気をつけて放してやります。そうでないとパニックのまま走り出して、がけに落ちたり、いばらの中に突っ込んだりするのです。羊の毛はいばらと絡むと取れなくなります。羊はさっきまで自分がパニックになっていたことなど忘れて・・・(そんなことあったかしら?)また元気に歩き出します。立派に成長したクリスチャンにも落とし穴はあるのですね。そして義の道、正しい道へ羊飼いは導きます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。23:4
夏になると放牧の羊飼いは高地の牧場に羊を連れて行きます。低地の草は枯れてしまうからです。高い山には深い谷があります。信仰の高嶺には、また深い危険も待ち構えているのです。しかし、大丈夫です羊飼いは全てのわざわいから羊を守ります。
むちと杖は羊を打つためのものではありません。むちはおもに毒蛇を殺すためです。羊飼いは毒蛇をむちで、一撃の下に殺す訓練を怠りません。杖は大きな獣と戦うためです。ダビデはライオンを殺したと言っています。
また、杖は沢山の羊を軽くたたいて、お前を覚えているよと知らせるために使います。羊はそのようなコミュニケーションを非常に喜ぶそうです。また、羊は子供を産んでも子供が自分で乳を飲まないと方って置くそうです。そんな時、羊飼いは子供を乳のところに連れてゆくのですが、人の手の匂いがつくと母羊は子供を拒絶するそうです。そのようなときには杖で子羊を連れてゆくのです。
また羊の中には“出歩き婦人”と呼ばれる羊が居るそうです。いつもよその牧場の草がいいと思っていて、何とか柵を越えて出て行くのです。(これは皮肉ではなく本当に居るそうです)そんなときは、やはりコツンと一発食らわせるのだそうです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。23:5
キリストは敵の前で私たちのために宴会を催すとあります。そのとき、聖霊の油が注がれます。羊も頭にアブラを塗られることがあります。それは寄生虫などが宿ったとき、薬を混ぜた油を塗ります。また気の合わない羊同士が頭で突き合うことがあり、時には血が流れます。そういうときには互いの頭に油をたっぷりと塗るのだそうです。そうすると滑って怪我をしないのです。なんだか人間もそんな風ですね。気が合わない人、何かのトラブルがあるとき、聖霊によって満たされましょう。
杯があふれます。それは神から与えられる愛と喜びの杯です。キリストは私たちの罪の杯を飲み干してくださいました。だから、今ははばかることなくめぐみの御座に出て、豊かな神の愛をいただきましょう。羊の場合、冬の寒いときなど薄めたお酒をちょっと飲ませるそうです。そうすると暖かくなって、プルンと尻尾を振って元気になるそうです。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。23:6
良き羊飼いに飼われた羊は幸いです。主のいつくしみと恵みが、私たちを“追ってくる”とは何とすばらしい翻訳でしょうか。口語訳では「伴うでしょう」でした。
私たちは良き牧者に出会いました。喜びをもって従ってまいりましょう。