メッセージ 2002・7・14   小 石 泉 牧師
 
最も安全な保障


だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」マタイ7:24~27

 台風6号によって岐阜県の大垣地方は洪水となり、沢山の家が床上にまで浸水しているのをテレビで見ながら、どうしてあんなところに普通の家を建てるのかなと思っていました。家の土台を高くするとか、土を盛るとか考えなかったのだろうか。少々、建設費は高くなるかもしれないけれど、家全体が壊れたり、浸水してしまっては何にもならないのに。その点、昔の人は賢かった。家どころか村全体、部落全体を高い土手で囲んでしまう輪中(わじゅう)というものがあったのです。
 このごろは“備える”と言うことが忘れられています。90年代、天井知らずの高値をつけていたアメリカの株は暴落しています。アメリカ人は貯蓄するより株を買います。それで繁栄を謳歌してきました。しかし、今や財産は紙切れとなってしまいました。日本も数年前には同様の暴落を経験しました。その結果、不景気になりリストラ、倒産が続いています。何を頼りに生きればいいのか。人々の心は不安にさいなまれ、行き先もなく漂い始めています。
 イエス様は最も安全な保障、永遠に動かない安全地帯を教えてくださいました。それはイエス様の御言葉、信仰の土台です。人間社会はその時その時の思想や流れで動きます。しかし、ほとんどは間もなく破綻してしまうのです。

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりyは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。マタイ24:37〜42

 イエス様は終わりのときの世界の有様はノアのときと似ていると言われました。ノアが海からは程遠い陸の上で船を作っていたとき人々はあざ笑ったことでしょう。その船は当時の人々の笑い話となり、ノアは気違い扱いされたに違いないのです。人々は壮大な船が出来るのを見物にやってきたことでしょう。ノアさんがどんなに雨が降る、洪水が起こると言っても人々は信じませんでした。社会は平和で、人々は少しでもおいしいごちそうはないかとグルメに走り、ブランドを競い、結婚式をどこでやろうかと悩んでいました。
 今、私たちが神について語っても人々は聞きません。それは丁度、大きな船を作っているように見えるのでしょう。人々は上の空です。でも、彼らの立っているところは決して安全ではないのです。株も、貯金も、土地も、会社も、本当はどれも安全な保証などないのです。それでも人々は神への信仰と言う確固たる土台には一向に目を向けようとはしません。私たちはこのごろ、私たちの教会で、病の癒しや、難しい留学の道の解決や、ありえない家の建設などの奇跡をいっぱい見ています。神への信仰はこんなに確実なのです。
 経済恐慌、戦争、大災害、世界の終末など聖書は恐ろしいカタストロフィー(大破局、大破滅)を預言しています。しかし、そのような大災害でなくとも、人間は一人一人必ずカタストロフィーを持っています。人はいつ死ぬか判らないのです。ですからもっと確実な保障、人生の解決、命の将来を考えるべきです。私はそのような心の解決のないままで生きて行けると言うことが判りません。今日の読売新聞にある人が自分は若いころから「死ぬということを最も恐れてきた」と書いていました。正直な言葉だと思いますが、一歩進んで聖書とキリスト教に向かわないのが残念です。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Uコリント4:18

 聖書は皮肉なことを書いています。見えるものは一時的、すなわち無くなってしまうものであり、見えないものこそ永続するものだと言うのです。昔、新しく来た女の方にこの話をしたら、苦笑して「何とナイーブなこと」と言いました。そんな風にしか見えないのかなと思いました。これはナイーブなことではありません。本当の現実なのです。私たちが霊的な目を持ったらすぐに判ることなのです。そして霊の世界に移されたらたちまち判ることです。その時、あわてふためいて、気がついてももう遅いかもしれません。
 岩の上に家を建てる人であってください。目に見える繁栄や平安ではなく、永遠に続く確実な保障を獲得してください。