メッセージ    2002・7・ 7     小 石 泉 牧師
 
完全な仲介者と完全な謙遜


 今日のテーマは二つになります。一つは仲介者であり、もう一つは神への謙遜です。
このごろテレビや新聞を読んでいるとどうして解決したらいいのかと途方に暮れるような難しい問題ばかりです。つい先日はイスラエル軍の戦車に石を投げる小さな男の子の写真を見ました。昨日は爆弾を腰に巻いた赤ちゃんの写真を見ました。もっとも後の方は、イスラエルが作ったものだとパレスチナ人は言っています。アフガニスタンでは副大統領が射殺され、インドとパキスタンは核兵器を持ち出して対峙しています。誰か仲介者は居ないのでしょうか。どこかに巧みな仲裁をしてくれる知恵者は居ないのでしょうか。

神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。テモテT2:5〜6

 キリストというとき救い主と訳されますが、本当の意味は仲介者です。あるいは弁護士と言うべきでしょう。仲介者と言う思想は日本人にはあまりなじみのないものなのかもしれません。しかし、欧米では社会生活で不可欠の存在です。アメリカの弁護士の数は人口当たりでも日本の何十倍です。仲介者、仲裁者のことを英語ではネゴシエイターと言います。特に有名なのが誘拐のネゴシエイターです。犯人に秘密裏に接触して相手の要求を聞き、人質の安全を確保する仕事です。誘拐犯に対して正義をかざしてもどうしようもない場合があります。人質が殺されてしまっては遅いのです。横田めぐみさんのような場合は特に、相手が国家ですから人質の安全確保は非常に難しいでしょう。お前たちは誘拐したと声高に言えば言うほどめぐみさんの命は危険にさらされます。私がめぐみさんの親なら先ず必死でネゴシエイターを探したでしょう。
 さて、イエスさまは神と人とのネゴシエイターです。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。ヨハネ4:6

 イエス様を通してでなければだれひとり神さまを知ることは出来ません。ですからイエス様を否定しているユダヤ人は、今は神さまについて正しい知識をもっていません。しかし、今から4000〜3000年前、一人のユダヤ人(正確にはエドム人?)が驚くべき正確さでこの方のことを預言しました。それはヨブです。ヨブ記は人間の不幸についての哲学と考えられていますが、よく読むとここほど仲介者としてのイエス様を正確に預言している箇所はありません。ヨブ記は長いのでかなりかいつまんで話さなければなりません。

ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。(中略)ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。ヨブ1:1〜12

 ヨブは、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかった、実に非の打ち所のない立派な人物でした。彼は裕福でありながら神を恐れ敬う人でした。だから神はサタンにヨブを自慢したのです。ここは実に奇妙な箇所です。サタンと神が会話し、互いに競い合うように見えるからです。しかし、こういう知識は今の私たちには判らないままで居るしかないでしょう。神様はサタンに挑戦に対して、ヨブを苦しめることを許します。それは神さまの遠大な御計画でした。非の打ち所のないと思われたヨブにも一つの欠陥がありました。それを取り除くために神さまはサタンの挑戦に応じたのです。
 ヨブは一日のうちに全ての財産と子供たちを失います。ここからヨブの苦しみが始まります。そして意味が解き明かされてゆくのです。この世では苦しみは何らかの悪い行いへの応報と考えられています。だからこの後にヨブを訪ねてきた友人たちは、ヨブが人知れず神に喜ばれない悪を行ったに違いないと責めるのです。しかし、ヨブは自分は決して他の人以上に罪を犯しては居ないと応戦します。この議論が延々と続きますのでそれについては各自で読んでください。
 ヨブの苦しみは苦難を受けたことだけではありませんでした。いやむしろそれ以上に、なぜ自分がこのような苦しみに会うのかという疑問への答えがないことでした。だから彼は神の前に出て、神と議論したいと願いますが、そのために自分と神とを仲介する仲介者が必要だという驚くべき結論に達します。

神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。9:32〜33

神と人との係わり合いには仲裁者が要る。このような思想は世界の宗教のうちにあまりあるとは思えません。多くの場合、直接祈りや要求、恐怖やなだめの供え物などが捧げられます。仲裁者、弁護士、仲介が居ると言うことは何と安心なことでしょう。しかも、ヨブはその方が一人であり、今は(その当時は)天におられると言う事を知っていました。

 
今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。16:19

 彼はイエス様と言う名前は知りませんでしたが、その方が神であり神と共におりヨブの証人として助けてくださると言うことを知っていました。恐らく彼はこの苦難の中でこのような真理に導かれたのでしょう。書かれてはいませんが、その影には聖霊の強い導きがあったのでしょう。そうでなければここまで正確にメシヤを期待する言葉が出てくることはありません。

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。19:25

 ここまで来るとただ驚くほかはありません。ヨブは贖いを期待していました。ヨブは恐らくアブラハムと同時代の人でモーセの律法による贖いの思想はなかったはずです。さらに今天におられるその方がやがて地上にやってくると信じているのです。ここはヨハネの福音書の1章の投影のようにさえ見えます。遠くにある鏡のようです。
 さてしかし、ヨブの三人の友人たちはそんなことはわかりません。ただ一方的にヨブが自分を正しいとすることを責めるのです。ヨブはついには神とひざを突き合わせて論じたいと言います。

ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい。私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。そこでは正しい人が神と論じ合おう。そうすれば私は、とこしえにさばきを免れる。ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。23:3〜10

 ヨブは後ろめたいことの一つもない本当に正しい人だったのでしょう。それだけに彼の苦悩は深いものだったに違いありません。

だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。私を訴える者が書いた告訴状があれば、私はそれを肩に負い、冠のように、それをこの身に結びつけ、私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにして近づきたい。31:35〜37

 すごいですね。彼は告訴状を手に神と対決したいと言うのです。ついに友人たちは沈黙してしまいます。そのときです、神が直接ヨブに語りかけます。

主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。38:1〜5

 ヨブよ、お前は何者か。お前は私と対等に議論すると言うのか。お前は世界を創造できるのか。神である私とお前の間にある開きはどれほどのものか、お前は知っているのか。神様はサタンを遣わし、ヨブを苦しめましたがそれはわずかにヨブに欠けたもの、完全なへりくだりを教えるためでした。ヨブは他の誰より潔白で、正しい人でした、しかし、さらに完全になるためにはそれが必要だったのです。「画龍点睛を欠く」と言いますが最後に足りなかったものを獲得させたのです。

主はさらに、ヨブに答えて仰せられた。非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。ヨブは主に答えて言った。ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。40:1〜6

 「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」神が直接現れたときどんな気持ちになるか私にはちょっとだけ経験があります。それはもう言葉で表現できないものです。ヨブはあわてふためき、呆然とし、ちり灰のようにへりくだりました。それこそ神がヨブに求めていた最後のジグソーパズルのピースでした。
 こうしてヨブは神様に会いました。神様は友人たちに、彼らの間違いを指摘し、ヨブにとりなしの祈りをさせます。そして再び今までのように豊かな祝福を与えます。それはこれまでの二倍でした。
 私たちは、今、ヨブよりも幸いです。なぜなら仲裁者と知っているからです。それこそわれらの主イエスキリストです。