メッセージ 2002・6・30 小 石 泉 牧師
福祉の心、優しさの学び
先週の教団牧師会で、三井先生がメッセージをされました。それは先生の23年間に渡る、福祉とのかかわりの中から学んだことでした。その内容のすばらしさに私たちは大変感動しました。今日はそれをなるべく忠実にお伝えしたいと思います。もっとも、私なりに消化したものですから、三井先生の言葉そのままではありません。
世阿弥と言う人がその書いたものの中で、、という言葉があるそうです。は上昇、成功、実り、前進のとき、は下降、失敗、効果なし、後退のときです。は、自分は失敗しないと考え、自己中心的になります。は身を引いて考える、人の心を理解するときとなります。これらは人の一生に入れ替わり現れるのですが、一方でずうっとの人、ずうっとの人もいるわけです。障害者、老人、子供、病人などはと考えられるでしょう。しかし、イエス様はこのような弱いものに対して、私たちが考える考えと全く違う発想を持っておられました。
イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。(中略)しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。ルカ6:20〜26
誰が、貧しいもの、飢えているもの、泣いているものが幸いだと思うでしょうか。しかし、イエス様の目には幸いに見えるのです。それはやがて神の国で富むものとされ、満たされ、慰められるからですが、よく考えてみるとこの世でも幸いなのです。一杯の御飯、一枚の服に喜ぶフィリッピンやインドの貧しい子供たちは、飽き足りて喜びも希望もない日本の子供より幸せかもしれません。富んでいるからと言って決して幸せなのではありません。ロックフェラー1世の妹は貧しくなってパンも食べられなくなると恐れ、精神病院のベッドや戸棚にパンを隠すので看護婦さんたちはそれが腐る前に取り出すのに苦労したと言います。世界最高の富豪ロスチャイルド家の長男は数年前に自殺しました。ダイアナさんは王妃になったからといって幸せだったでしょうか。
それにしてもイエス様は何と肯定的な考え方をするのでしょう。貧しい、飢えている、泣いている、という現状でさえ幸いだと言うのです。私たちは障害者を見るときこのように見ることが出来るでしょうか。「あなたは目が見えませんね、お気の毒ですね」と言うのが私たちの接し方でしょう。しかし、イエス様は盲人に対してこう言っています。
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。ヨハネ9:13
究極の肯定。常にイエス様は現状を否定しません。そしてその先にあるものを期待します。人間が一番不幸なのは自分の現状を肯定できないことです。もちろん前進するために現状に満足しないのなら良いのですが、自分を他人と比較したり、呪ったり、過度に裁いたりするとき人間は自分を滅ぼします。現状がどうであれ神さまは私たちを愛してくださっているのです。こんなものでさえ「あなたはわたしの目には高価で尊い」と言ってくださるのです。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』マタイ25:32〜36
これはイエス様が裁きの座につくときの光景です。神さまに祝福された人々、羊にわけられた人々にイエス様が言っておられる言葉に注目しましょう。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え」た、というのは誰でもわかりやすいことです。しかし、「わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」と言うとき、これはそれほど評価されない行為と考えられるものです。病のとき「癒し」、牢にいるものを「解放した」のではないのです。ただ見舞い、たずねただけなのです。そんな小さなことをイエス様は評価されています。人間関係ではこのような小さな優しさ、かかわりが返って重要なこともあるのです。
福祉にかかわらず、私たちの人間関係では「相手と自分を知る、共に居る、待つ、忍耐する、正直に自分を見る、信頼して変化を待つ、自分の不足を隠さず相手から学ぶ、希望を失わない、傷つくことを恐れない」などが必要だと言うことです。
次にヤコブから学びましょう。兄エソウを騙して長子の特権を奪い、父イサクまで騙して長子の祝福を奪って遠い地に逃げていったヤコブが沢山の人と家畜を連れて故郷に帰ってきたとき、兄エソウは喜んで迎えに行きました。そして次のように言いました。
エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私はあなたのすぐ前に立って行こう。」と言うと、ヤコブは彼に言った。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」創世記33:12〜14
エソウの方はさっぱりしたものでそんなことは忘れて弟の帰ってきたことがうれしくてなりません。しかし、何しろ後ろめたいヤコブはエソウが怖くてなりません。ですから、この言葉はヤコブの警戒心だけかと私は長い間思っていました。エソウに会う前のヤコブは怖くて怖くて自分のキャラバンをいくつにも分けて、最初のグループが撃たれたら真っ先に逃げ帰ろうと最後尾に付いて行ったくらいです。神の御使いに腰の骨を外されていたのでそんなには機敏に動けない状態でしたが。
しかし、ここにヤコブの変化を見ることが出来るかもしれません。ヤコブ、押しのけるものと言う名前の男は、その名の通り兄を押しのけて長子の特権を手に入れ、叔父ラバンを押しのけて財産を手に入れました。しかし、結婚では叔父に騙されラケルではなく姉のレアを押し付けられ、その後もこき使われました。そんな苦労の中で彼は変えられたのでしょう。「子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け」ます。何と愛情に満ちた言葉でしょうか。あのヤコブがねえ。
人の心へのアプローチ、優しさの学び、感謝でした。