メッセージ 2002・6・16   小 石 泉 牧師
 
我が恵汝に足れり


エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。雅歌2:7

 愛は強制されて生まれるものではありません。そんな当たり前のことを、改めて言わなければならないことが問題なのです。しばしば私たちは愛を強要します。それは神への愛、信仰において顕著です。神さまはここで、信仰は強制されてはならないことを言っています。この世においては、脅迫、惑わし、マインドコントロールなど信仰の強制があります。教会も誰も強制できません。参加するのも、退会するのも自由です。逆に心から喜んで参加し、共に建て上げるのが教会というものです。
 神さまは献金においても全く同じように自発性を重んじられました。

わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。出エジプト25:2

時々「教会は何もしてくれない」という不満を言う人が居ます。(今そうだというのではありませんが)こういう場合は確かに何かをしなければなりません。なぜならその方の信仰は病気だからです。健康なクリスチャンからはそういう発想は生まれてこないからです。健康なクリスチャンは「私は神のため、教会のために何が出来るだろうか」と考えるものです。

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。マタイ13:44〜50

 これは教会の姿です。信徒の一人一人は畑に隠された宝のようなものです。また良質で高価な真珠のようなものです。少なくとも教会は長い間そうして来たのです。ところが終わりの時代になると、大きな地引網のように「あらゆる種類の魚を集め」始めるというのです。大きなことは良いことだ。教会成長。大教会主義。しかし、この御言葉を読むとき、魚は“えり分けられる”のです。本来、一度救われたものがえり分けられるはずは無いのです。それは「あらゆる種類の魚」すなわち本物も偽物も混ざっているということを示しているのです。だから大きくても小さくても結局同じことです。私たちは畑に隠された宝、高価な真珠を求めてゆきます。なすべきことをしていたら、それで良いのです。 さらにもう一つの問題があります。それは恵への慣れです。

また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。Uコリント12:7〜9

 パウロ先生には肉体に弱いところがありました。それは目が悪かったのだと考えられています。次の御言葉がそれを暗示しています。

そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。
ガラテヤ4:14〜15


ガラテヤの教会が信仰から外れそうになったとき、パウロ先生は厳しく戒めました。以前は自分に対して忠実だったガラテヤの教会が今は忍び込んできたユダヤ人の偽りの教えに流されてゆくのを引き戻したのです。その時、この言葉が書かれました。「自分の目を抉り出して私に与えたいとさえ思ったでは」ないかというはどう考えても目に問題があったとしか思われません。また、次のようにも書きました。

ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。(新改訳)

ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。(口語訳)6:11

 死んだユテコをよみがえらせたパウロ先生ほどの人が、自分の目を癒してもらえなかったというのは不思議な話です。いくら癒しを行っても、何で御自分は癒されないのだろうとみんなは思ったことでしょう。神様はあえて癒さなかったのです。なぜでしょうか。
 それは恵に慣れないためです。私たち人間は与えられている祝福や恵に慣れて感謝を忘れるものです。救われ、癒され、大きな祝福を受けても、いつの間にかそれを当然のこととして感謝を忘れることがあるのです。そこに高慢が生まれ、信仰の破船に行き着きます。実際パウロ先生ほどの人はいくらでもそうなる可能性がありました。あまりにも優れた啓示と御力を与えられていたからです。パウロ先生はコリント第二の手紙の箇所で、第三の天にまで上げられたとさえ言っています。そのために神さまはパウロ先生が常にへりくだるように弱点、とげを与えられたのです。パウロ先生はそれを取り除いてくださるように3度も祈ったとあります。しかし、神さまの答えは「わたしの恵はあなたに十分である」でした。文語訳聖書では
「我が恵、汝に足れり」です。
 私たちもしばしば、恵を忘れ、不満、不足を数えることを優先するものです。どこから救われ、どんな状態から回復されたのかをすっかり忘れて、これが足りない、これでは不満だと不足ばかりを数えてしまうのです。

義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。イザヤ51:1(口語訳)

 いつもへりくだり、感謝を忘れず、神を愛し続ける人。そうありたいのです。神さまはそのような信仰を求めておられるのです。近頃のように奇跡だ、しるしだとそればかり求めて、飢えた乞食のような信仰者にはなりたくないものです。

主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。イザヤ63:8~10

 「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、」という御言葉の意味が判るでしょうか。神さまは決して私たちを忘れることはないのです。恵みに欠けることはないのです。

これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。・・主の御告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。66:2

 「へりくだって心砕かれ、わたしの言葉におののくもの」いつもそういうものでありましょう。恵を忘れ、不足を数えるものではなく、恵を数え、感謝を絶やさず、恵にめぐみを増し加えていただくものでありましょう。