メッセージ   2002・5・26   小 石 泉 牧師
 
私の神、神の私


私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。詩篇7:1

 神を信じると言うとき、そこに二つの段階があります。一つは「主は私の神です」という段階です。ダビデはその点で非常に神を求めた人です。私たちも「私の神はイエス・キリストとその父なる神です」と告白します。これは聖書のどこの部分でも書いてあって引用するにはあまりにも多いのです。

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(中略)
聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。(中略)
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。27:1〜14


 ここを読むと、ダビデが心から神を畏れ、まるで目の前に見ているように親しく、切々と訴えている姿に感動します。これほどに神を現実のものとし、自分の神としてあがめ、敬い、愛し、慕い、求めることが出来るものだろうかと思います。これはまさに神を「私の神」としている典型的な姿です。「何でも出来る私の神様」と言う歌もいいですね。
 さて、しかし、神を信じる第二段階があります。それはもちろん第一段階と対立するものではなくその上にあるものです。確かにダビデもその段階に居たのです。
それは「神の私」という段階です。これはクリスチャンでも、それほど多くの人が知らない段階ではないかと思います。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ15:16


 イエス様ははっきりと、私たちは神によって選ばれたのだと言っておられます。特に優れているからでも、清いからでもありません、とにかく選ばれたのです。不思議な話です。良く私が言うように、私たちが「信じる」という扉を開けて中に入り、後ろを振り向いたら、同じその扉の内側に「選ばれていた」と書かれていたのです。もう逃げることも、失うこともありません。私たちの移り気な信仰ではなく、絶対的な神の選びの御手が私たちの上にあったのです。これがはっきり判ると、もう信仰の動揺はありません。
 ある人は言うのです「まだ駄目だ、私は神にふさわしくない、まだ清くない、まだ不十分だ」。ではいつになったら十分になるのですか、完成するのですか。もし自分が十分だ、完成したという人が居たらそれこそ傲慢で危険そのものです。私たちは到底神の聖さには到達できません。ただ神の憐れみによって救われるのです。ですから「私は選ばれている」と信じることが信仰の完成なのです。そんなのはずうずうしい。あつかましい。多くのクリスチャンがそう思っています。ところが逆なのです、信仰はずうずうしく、あつかましい人が謙遜なのです。自分の力では救われない、だから神の選びに寄り頼む、これがキリスト教信仰なのです。自分の力で救われようとする人は偶像崇拝の習慣を持ち込んでいるのです。それは神さまの最も嫌われるところです。このような信仰は案外理解されていません。そしてどこまでも空しい努力を重ね、小さな自分の功績を誇るのです。人は皆自分を誇りたいのです。どれほど多くの自己讃美を聞いてきたことか、どれほど多くの自己讃美をしてきたことか。それは人間の最も醜い習性なのです。サタンがルシファーからサタンになったのも自分を賛美したからであることを覚えましょう。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。Tコリント6:19〜20

私たちは買い取られたのです。罪の奴隷であったものが、尊い神の御子の血の代価によって買い取られ、喜びと賛美の待遇を与えられたのです。私たちは何と、聖霊の宮、神の神殿となったとありますが、これは途方もない思想です。なんと不遜な! しかし、私たちのために神の御子の高価な命が支払われました。ですからもはや私たちは自分のものではありません。私たちは「神の私」なのです。私たちの背中には値札がついています。その値段は無限大です。神の御子の値段です。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。3:16〜17

 もう自分のものではないので、自分で自分を壊すことは許されません。神の神殿は神の所有物です。自分の命にも自分の権利があると思ってはなりません。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4

 神さまがこう言われるとき、それはお世辞でも、冗談でもありません。本当にそう思っておられるのです。私たちはある人が亡くなると急にその人の価値が見えてくるということがあります。あの横山やすしさんという漫才師を思い出します。生きている間は、マスコミはこぞって彼を笑い、馬鹿にしていましたが、死ぬと突然、天才だったと騒ぎ出しました。神さまにとって私たちは本当に高価で尊いのです。それは御子の命が掛かっているからですが、逆に御子が命を投げ出すほど私たちを高価で尊いと思っておられるとも言えるのです。信じられないことですが。私の雅歌の解説を読んでみてください。どれほど神様が私たちを愛しておられるかがわかります。 

わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。42:1

 これは私の献身の御言葉です。この箇所は、本当はイエス様のことですが、受け取る人によっては、自分の言葉となるのです。私たちを個人的に支持しておられる神。私たちを選び、しかも「見よ」と誇っておられる神。信仰の第二段階はこのように自分が神に絶対的に支持され愛されていると信じる段階です。傍から見るととんでもない思い違いかもしれないのですが、思い違いでも良い、思い込んだ方が勝ちです。私はそう信じ、そう生きてきました。だから誰が何と言おうと、絶対に負けません。人は他人の益になることは言わないものです。そんな言葉に動かされていては何も出来ません。私は神のものであり、神に支持され、神に愛されていると信じ切った者こそ勝利者なのです。
 前の船橋の教会でのことです。ある日、私と下の娘が私の部屋にいました。すると開いていたドアから子猫が入ってきました。その子猫は私たちを全く無視して、部屋の中を歩いてくるとソファの上にぴょんと飛び乗って寝てしまいました。それはまるでここは自分の家で、自分がここに居るのは当然だといわんばかりの態度でした。全く自然で、平安そのものでした。私と娘とは息を殺して見守っていたのですが、眠ってしまうと思わず目を合わせて、「飼おう」と言い合いました。家には犬が居たので猫は飼わない決まりでしたが、その子猫は飼うべきでした、なぜなら彼または彼女がそう決めていたからです。私はこの子猫から信仰の姿勢を学んだのです。もし、その子猫があたりをうかがい、恐る恐る入ってきて私たちをおびえた目つきで見たら、追い出していたと思います。「ここは初めから私の家で、私がここに居るのは当然です。」そういう態度だったから、私たちは子猫に同意したのです。神さまも同じことです、なまじっか出来もしない努力や、及びもしない清さを求めてまだ駄目だ、まだ駄目だといいながら、それで居て、他人と比較して自分はあの人よりはましだと高ぶっているよりは、初めから神様の懐に飛び込んでぐっすりと眠りこける・・・怠けてはいけませんが、平安を持つという意味です・・・のが秘訣です。聖書はそういう信仰を随所に書き表しています。

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。ヘブル11:13〜16

神が「それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。」のは彼らが立派な信仰者だったからではなく、ただ神だけを求めて生きたからです。
私の神、それも立派な信仰ですが、神の私、という信仰こそ信仰の奥義、秘訣なのです。