メッセージ 2002・5・19 小 石 泉 牧師
再臨の真実
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。ヨハネ14:1〜4
今日はペンテコストの日に当たりますが、先週、美智子先生からペンテコストに関わるメッセージを聞いたということですので、違うお話をいたします。
最近、アメリカで「レフトビハインド」という本がベストセラーになり、日本でもいのちのことば社から出版されています。私はまだそれを読んでいないので、内容については何も知りませんが、広告を見て言えることはいわゆる空中携挙といわれることの話らしいのです。レフトビハインドとは日本語で言えば「置いていかれちゃった」と言う意味です。
キリスト教の中心となる教理4つです。それは神が人となってこの世に来られたということ、すなわち「受肉」、その方イエスキリストが私たちの罪の身代わりとして十字架におかかりになり贖いをしてくださったと言うこと、すなわち「贖罪」。死の後、墓を破って命によみがえられたこと、すなわち「復活」。そして、昇天され、いつか再び来られると約束されたこと、すなわち「再臨」です。
この再臨に関して、近年になって空中携挙という新しい思想が生まれました。空中携挙とは世の終わりに患難の時代があり、その前にクリスチャンは空中にこられたイエス様によって生きたまま引き上げられ、天においての子羊との婚宴に参加すると言うものです。しかし、準備を怠ったクリスチャンは置いていかれ、苦しみの内に患難時代を迎え、その後に本当の再臨があると言うのです。つまり再臨は二段構えの構造をしていると言うのです。この思想は今アメリカを中心とするプロテスタントでは絶対的な真理となっていますが、実はまだ100年も経たない新しい考え方なのです。確かに、聖書にはそういう考え方が出来るような御言葉があります。しかし、注意しなければならないのは、果たして聖書はクリスチャンが患難の時代を通らないと教えているかどうか、そしてそのための心の準備を放棄してしまっていいのかということです。
患難時代は世の終わりにだけ来るものではありません。歴史上、クリスチャンはいたるところで迫害されてきました。もっとも実はそういう時代はクリスチャンでなくとも艱難の時代なのですが。(患難という文字はキリスト教特有のものです。)
北朝鮮は今、患難時代です。中国は少し前まではそうでした。ロシアも10年まえ、民衆には患難時代でした。日本も50年前には教会は迫害され、牧師の幾人かは殺されました。歴史上、いつもどこかで患難時代はあったのです。私は特に、北朝鮮の実情を知るに連れて、これから来る患難時代がそれらの患難時代よりひどいとは思えなくなってきました。ですから患難時代の前にクリスチャンは携挙され、患難を受けないと言う虫のいい話が本当と思えなくなってきたのです。その意味で二段構えの再臨と言う考えを真理とは決めないでいただきたいのです。さて聖書には確かに空中携挙の話があります。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。Tテサロニケ4:14〜17
ここにははっきりと空中で主と会うと書いていますから確かにそうなるでしょう。しかし、どこにも患難時代を通らないでと言うようなことは書かれていません。それどころかあなた方はこの世では悩みを受けると言われています。ある人にとっては今現在が耐え難い患難時代かもしれません。ですから患難時代を特別恐れる必要な無いのです。いつでもあったし、あることなのです。さらに二段構えの再臨の根拠になったのは次の箇所です。
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。マタイ24:37〜42
一人は取られ、一人は残される。レフトビハインド。しかし、ここから二段構えの再臨を決定することもできません。一度とも受け取れるのです。その時、イエス様はどのようにこられるのかも書かれています。
だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。マタイ24:29〜31
イエス様はこのとき天の雲に乗ってこられるのです。これはおとぎばなしでも、宗教講話でもなく本当に文字通りそうなるだろうと私は思います。これはまた多くのにせものが現れて「自分が再臨のキリストだ」と言うことへの忠告でもあります。偽キリストは前に主が女から生まれたことを真似て、女から生まれてくるからです。今度は女から生まれるのではなく天の雲に乗ってこられるのが見分けるしるしです。
とにかく主は来られます。そのとき、子羊なる主と教会の盛大な婚姻が行われます。
また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。黙示録19:59
なんだか判らないけど、何かひどく美しく壮大で厳粛なことが始まるのです。そして千年王国が始まるらしいのです。しかし、どんなに聖書を読んでも、一体どういう順番で起こるのかはわかりません。判っているのは何が起こるかであって、それはわざとかもしれないのですがばらばらに隠されているのです。
では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。」・・・・・主を求めて生きよ。アモス5:4〜6
終末の時代でも、再臨の前でも、いつでも同じことです。私たちに最も大切なことは「主を求めて生きる」ことです。他のものを求めていてはキリストの再臨に間に合わないのです。いつも純粋に主を求めて生きるのです。マタイ25章の賢い5人の娘のように。そうすればレフトビハインドの心配はありません。