メッセージ   2002・5・5     小 石 泉 牧師
 
聖書に書いてある


 聖会でマクラウド先生のメッセージを聞いていたとき、私は今まであまり深く感じていなかった、ある事実に目が開かれました。それは直接、先生がお話になっていた内容とは関係ないのですが、わくわくするほど新鮮な驚きをもって私に迫ってきました。それは聖書には神の御言葉が「書いてある」ということでした。何だ、当たり前じゃあないかと思うかもしれませんが、実はこれは非常に大切な真理なのです。

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。マタイ4:1〜11

 「と書いてある」。イエス様が悪魔の試みを受けたとき、ご自分の神としての御力ではなく聖書の御言葉で答えました。悪魔も御言葉を利用していますが、イエス様はさらに御言葉で答えました。それも「書かれている」ということを強調して言っています。
 さて、聖書には神の言葉が書かれています。言葉と言うものは、元々は音ですから、すぐに消えてしまいます。しかし、それが書かれると永遠に消えません。言葉は受け取る人によって曲げられたり薄められたり誤って伝わったりします。エデンの園でへびはエバに対して「神は本当にそういったのですか」とささやきました。エバはついその誘いに乗り、ちょっとばかり神の言葉を薄めて答えました。その結果まんまとサタンのわなにはまりました。もしこのとき、御言葉がどこか岩にでも書かれていたら、エバは「ほらあそこに書かれている通りです。」と答えたでしょう。そうすれば間違うことはありませんでした。
私たちが土地を買ったときのことを考えてください。一番大切なものは「権利書」です。これがなければどんなに「これは私が買ったのです。ちゃんとお金も払いました。」といっても裁判で勝てません。例え、先祖代々の土地でも「権利書」がなければ、あなたのものではないのです。(極端に言っています。もちろん他にいろいろ方法はあります。)
 また遺言は書かれて居なければ絶対に有効ではありません。「お前に1億円上げるとおじいさんは言った」といくら主張しても言葉だけでは証拠にはならないのです。遺言は文字に書かれ第三者の承認がなければ無効です。
 また国籍について考えて見ましょう。あなたが日本人であると言うことを証明するのは戸籍です。いくら何十年日本に住んでいたといっても、戸籍がなければ国籍は証明されません。書かれているということはこんなにも重大なことなのです。だから聖書は単に御言葉をのせる器ではなく、また神さまの御旨を伝える道具であるだけでもありません、聖書はそれ自体が私たちの権利書であり、保証書であり、戸籍抄本なのです。
 ではそういうことを知った上で御言葉を読んで見ましょう。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。ヨハネ16:23〜24

 今まで私たちはこの御言葉を読むとき、ああイエス様はそう言われたのだと受け取って来ました。これからはさらに、「と書かれている」と受け取るべきです。約束は書き記されたのです。もう消え去ることも、失われることもありません。これは私たちへの保証書であるのです。そして救われたものの権利書でもあるのです。あなたはこれから神さまに向かって何でも求めることが出来ます。「神さま、イエス様はそう言われ、聖書にこう書いてありますから」と。

 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」使徒16:31 

こう書かれてあるからには、あなたが主イエスを信じたら、あなたもあなたの家族も救われるのです。神の言葉はもう取り消されることはありません。あなたは救われています。そしてあなたの家族が、今どのような状態であれ救われるのです。

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。ヨハネ1:78

 あなたの罪は、それも、すべての罪は清められています。御子イエスの血によって。

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。使徒4:12(前は新改訳、後は口語訳)


 なんと力強い言葉でしょうか。イエスと言う御名のほかには人間を救うことが出来る名、すなわち権威、権力、能力はないというのです。そしてそれは文字に書かれて永遠に消え去ることはありません。この世のどんな神々の名もその前では空しいのです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。ピリピ3:20

 あなたの国籍が確認できましたか? これは地上での私たちのパスポートです。はっきりと私たちの国籍が書かれているでしょう。ですからイエス様は言われたのです。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。ヨハネ15:7

 私たちが主イエスの福音を真理として受け取る限り、私たちにはまるで金額欄が空白の小切手が与えられているようなものです。これはあまりにも楽天的で、とても現実とはかけ離れているようですが、しかし、そう書かれていることは紛れもない事実ですから、そうお伝えするしかありません。確かに私は無一文で教会を始めて、こうして1億円の教会を手にしていますからこれは真実だと保障できます。
 聖書は神の霊に導かれた人々が書いたものです。

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。Uテモテ3:16

 この霊感は聖書を書かせ、集め、保存しました。時には軍隊が聖書を滅ぼすために動員されました。時には教会が聖書を読むことを禁じました。時には世界中が聖書をあざ笑いました。しかし、聖書は常に真実でした。ユダヤ人は「本の民」といわれました。それは聖書しか本のなかった時代から、彼らが聖書に立っていたからです。
 新約聖書が書かれていたとき、珍しい言葉が書かれました。

また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりですその中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
Uペテロ3:15〜16


 これはペテロがパウロの手紙を批評した箇所です。なんと、まだパウロの手紙のインクが乾かないうちに、ペテロはパウロの手紙が聖書だと断言しているのです。
 こうして聖書は書かれました。たとえこの聖書が破られ、燃やされても、どこかに聖書は生き残って永遠に神の御言葉を伝えるでしょう。聖書はあなたの権利書であり、保証書であり、戸籍抄本です。私たちは権利書をどこにしまうでしょう。家の最も大切な場所にしまうでしょう。でも聖書はいつも取り出して読むべきものです。いつも確認してください、あなたの権利、与えられ、許されている能力、約束されている全てものを。