メッセージ 2002・4・14 小 石 泉
牧師
ファイナル・メッセージ・リハーサル
いつも、メッセージには苦労しています。今日は何をお話しようかと考え、祈っていたとき、午後から中国に行くということで、とりあえずはささやかな別れをすることから、自分は、自分の最後のメッセージなら何を話すだろうかと考えました。それで今日は私の最後のメッセージのリハーサルをしてみようと思います。
最後の、と言うときいっぱい話したいことはあるのですが、やはりピリピ書だなあと思いました。ピリピ書はパウロの最後のメッセージです。パウロはローマ書では壮大なキリスト教神学を構築し、コリント書ではクリスチャンのあるべき姿について厳しく戒めています。しかし、ピリピ書はまるでラブレターのように、優しさと愛の言葉しかないのです。
キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいのです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。1:1〜8
パウロはピリピの人々を思うごとに“感謝し”“喜びをもって祈り”と言っています。それどころか“愛の心をもって、慕っている”とさえ書いています。これは忠実な信徒をもつ牧師のいつわらざる心です。信頼と従順。愛と慰め。パウロはピリピの人々にそのような心を持っていました。それはまた神さまの心そのものでしょう。このように偉大な使徒に証言されている人々は神の覚えられる人々です。
それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。1:20〜25
「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」パウロ個人としては生きるより死んでキリスト共にいることの方がはるかに喜びでした。しかし、自分が生きている方が多くの人々のためには必要なことだと考えているのです。私も本当にそう思います。私はパウロとは比較になりませんが、どこであれ伝道すれば幾人かは救われるので少しは役に立っているのだと思うのです。
そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。1:26〜2:2
「私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。」と言えたパウロの正しく清らかな人生をうらやましく思います。またピリピの教会は
「霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。」いうのです。なんという立派な教会でしょう。これもうらやましい。
「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」これは重大な言葉です。今、教会は慰め、いやし、繁栄を求める場所だと言うことばかりでキリストのために苦しむなどと言えばたちまち信徒がいなくなってしまうのではないかと思います。しかし、これこそ本当のクリスチャンです。
「もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」ここまでパウロに言わせることの出来たピリピ教会。なんという輝かしい教会だったことでしょう。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。2:3〜11
自己中心、虚栄。これは意外に根強いものです。教会にもこういう雑草ははびこるものです。むしろそれとの戦いといえるかもしれません。ですから「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。」と言う忠告は非常に重要なのです。ピリピの教会は問題がなかったわけではないでしょうが、このようなことを安心して言えるほど優れた教会だったのです。その後のキリストの描写はあまりにも有名で、黄金のように永遠に輝くでしょう。
たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。2:17〜18
パウロは明らかに死を意識していました。注ぎの供え物とは羊を殺してその血を祭壇に注ぐことを意味しているからです。このときパウロは獄中にあったのです。それにもかかわらずパウロの口からは喜び、喜びとこの短い言葉の間に4回も出てくるのです。
だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。2:21
これもまた耳の痛い言葉です。良く覚えましょう。
パウロはこの世の地位名誉、富を得ることが出来る立場にありました。しかし、そのようなものをちりあくただと言っています。そして
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。3:10〜14
彼は、自分は完成したとは考えていないと言っています。「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、」パウロほどの人さえ、自分は「まだ、未完成だ」と言っているのです。そして前進あるのみといっているのです。私たちの誰もが同じように思うべきです。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。4:4〜7
これがパウロの遺言のしめくくりです。喜び、平安。もうこれ以上何も言うことはない。全てを伝えましたよ。ではさようなら。そんな感じです。パウロがどこでこの手紙を書いたかははっきりしません。しかし、いつでも彼は死の危険を予感していました。そしてそんな中でもいつも喜びと平安がありました。間もなく彼は殉教したのです。
(このメッセージをしてから中国に飛び、すぐに釜山の事故がありました。同じ中国国際航空でしたので、まんざらオーバーでもなかったかなと思いました。それにしても私の説教は、ただ聖書を読んでいるだけではないかと思いました。情けないですが、いろいろ勉強したりするより聖書を読んだ感動を皆さんにお伝えできればと思うのです。不勉強はさておき。)