メッセージ   2002・4・7       小 石 泉 牧師

わたしにつながっていなさい


「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」1列王19:18

長い話を短くすれば、エリヤが悪王アハブの前で、バアルの預言者400人、アシラの預言者450人と戦い、天から火を降らす奇跡を行い、彼ら850人を切り殺した後に、アハブの妻イゼベルの脅しを恐れて逃れ、神の山ホレブで神の前に立ったときの話です。「私は一人だけになりました」というエリヤの言葉に答えて神はこう言われたのです。今まで私はそれ以上に考えたことはありませんでしたが、最近、ふと、その7千人はエリヤが戦っているとき、何をしていたのだろうと思いました。もし、私がエリヤだったら「私が一人で戦っていたとき、君たちは何をしていたんだ」と言ったと思います。
エリヤが孤軍奮闘していたとき、一人でも彼を助けるために来るものはいなかったのです。何と消極的な。しかし、これは私たち大部分の姿ではないでしょうか。もちろんエリヤさんほどの人物はそんなにいるものではありません。彼はモーセと共に全地の主の傍らに立つ2本のオリーブの木といわれています。神であるイエス様を支えるほどの人間でしたから比較にはなりません。しかし、彼らがもう少し積極的であったらと考えるのは間違っているでしょうか。ところが神さまは彼らを認めているのです。そのまま、彼らを自慢さえしています。このことを思いながら、教会と私たちの関わりについて考えてみましょう。

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。ヨハネ15:1〜6

「わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」イエス様がわたしにとどまれと言われたとき、それは具体的に何をすることなのでしょうか。信仰を持ち続けることでしょうか。確かにそうですが、このわたしイコール教会と考えることは一番理解しやすいでしょう。しかし、問題は、果たして教会はイコールイエス様だろうかということです。確かに聖書には次のように書かれています。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。エペソ1:23

しかし、キリストを完全に満たしている教会にはなかなかなれません。30年間牧師をしてきて一番困難を覚えたのは、「この教会は不十分だ。不完全だ。」と論じたてる人々でした。確かに、その通りです。私たちは決して「キリストが満ち満ちている教会」としては十分ではありませんでした。教会はもっとキリストに似るものとなるべきです。しかし、その人々も不完全であり、不十分であるのです。それを前提としているなら問題はありませんが、多くの場合、自分は、という視点がないのです。「あなたは完全ですか? あなたは十分なのですか?」と聞きたいことが良くありました。私たちは互いに不十分であることを知っていなければ教会など出来るものではありません。自分の不完全なこと、自分も不十分なことを悟っている人々はほとんどの場合、黙って力を貸してくれるのです。
さらに困ったケースは「教会なんていらない」と言うことになる場合です。これではほとんどイエス様はいらないと言うことになるのではないかと思います。教会は協調、協力、組み合わされることの訓練の場です。それは信仰の非常に大切な要素です。
 一つの例を挙げましょう。ここに多くのすばらしいレンガが積まれていると考えてください。一方、その隣に、レンガで出来た家があるとします。人々はレンガの山を見たときに「これはすばらしいレンガの山ですね」と言います。けれどもレンガで出来た家を見るとき「これはすばらしい家ですね」と言うでしょう。レンガが積まれているだけではそこには人は住めないのです。教会は一人一人が組み合わされて、初めて神を宿す家になるのです。一人一人がばらばらにいるだけでは神の家にはなりません。そこは神の住まいではないのです。クリスチャンが完全に機能するのは、組み合わされているときです。その時、人はレンガではなく家に関心を持ちます。完全に機能しているとき、素材は忘れられるのです。人間の体でもそうでしょう。心臓が問題ないとき、誰も心臓には関心を持ちません。しかし、心臓に重大な関心を持つのは心臓に何か疾患が起こったときです。多くの場合、牧師は問題のある人々に多くの時間と祈りを持ちます。ところが皮肉なことに、しっかりと教会を構成している人々には、つい何もしないでいることが多いのです。(ここでメッセージのときTコリント12章を読むべきでしたが、忘れました。どうぞ読んでください。)
 良く話される例話を思い出してください。ある人が地獄に行きました。ちょうど食事の時間でみんなが食卓に集まってスープを飲もうとしていたのですが、彼らは不平不満たらたらでみんなやせこけていたのです。それは彼らには長い柄のスプーンが与えられていたので、なかなか自分の口に持って来れなかったのです。次にその人は天国に行きました。するとやはり食事時でみんなが食卓に集まっていました。彼らも同じように長い柄のスプーンを与えられていたのですが、彼らは楽しげに食べ、良く肥えていました。良く見ると彼らはその長い柄のスプーンで互いに食べさせあっていたのです。これは信仰の一つの姿を表わしています。

 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。Tヨハネ4:12

 私たちが愛し合うなら、神が表わされます。しかし、愛し合うためには、互いにそこに居なければなりません。教会はその意味で天国への訓練場だとも言えるでしょう。
 私は教会につながることが、イエス様につながることだと信じたいのです。今ある教会は決して完全ではなく、不十分ですが、それでも神さまは愛しておられるのです。