メッセージ    2002・3・ 17      小 石 泉 牧師

裁きと許し


 先週、非常に興味深い裁判の判決がありました。光市の当時18歳の少年による母子殺害事件の判決でした。それは無期懲役でした。私は当然、死刑だと思っていましたので意外に思いました。そしてどうして死刑にならなかったのだろうと考えました。
判決文の中に、罪は重大で十分死刑に値する、被害者の夫に対して反発する手紙も書いているが、それは夫の側のからかいの言葉に反発したもので、反省の気持ちも生まれている、それで無期懲役で更正の機会を与えると言うものでした。私は裁判官の苦渋の決断を思いました。裁判官と言うものは自分の判断一つで命を奪う権威を持っています。これは神が与えたもので、正しく用いられるならば社会に有益なものです。しかし、裁判官も人の子です。目の前にいるまだ若い命を自分の言葉一つで失わせることへの“ためらい”がないとは言えないでしょう。ましてすこしでも悔いる心があったら。人を裁くとはなんと難しい仕事でしょうか。償うことの出来ない罪には裁きか許ししかありません。神さまは私たちにこの二つの内の許しを選ばれました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。ヨハネ3:16〜18

ひとり子を与えたとはどういう意味でしょうか。それは今、私が自分の子供を抱いていると考えてください。その子供をどうにでもしてくださいと、あなたに差し出したということです。二つの国が戦争をしていたと考えてください。あるとき一方の国の国民が大量に相手の国の捕虜になったとします。釈放してくれと言うこちらの要求に対して相手の国は、その国の王子との交換を申し出ました。王は王子を身代わりに差し出して人質は釈放されました。しかし、王子は相手の国で殺されたのです。
これは神と人とキリストの簡単なたとえです。間違えていただきたくたくないのは、神さまが御子を差し出したのはサタンに対してではなく人の犯した罪です。神さまはサタンと取引はしません。
御子を信じるものは裁かれないのです。彼は許されます。なぜなら御子が身がわりになられたからです。神さまの許しはただむやみに許すのではなく、御子の命と言う代償のある許しです。私たちは神の前では許されるほかないからです。

主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。詩篇130:1〜4(口語訳)

神には人を裁く権利があります。しかし、それにもかかわらず「ゆるしがあるから、人に恐れかしこまれるでしょう」と詩篇の記者は記しています。
そんなことは有り得ないし、あって良い事かどうかわかりませんが、もし、あの被害者のご主人が「あなたをゆるします」と言ったら、あの少年はもっと早く悔い改めるのではないでしょうか。もし「お前を絶対に許さない」と言い続けられたら、むしろ少年はそれを免責と受け取るのではないかと私には思えます。犯罪者と言うものはそういう心理を持つものです。

アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、主がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行なった。アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」T列王21:25~29

これはアハブ王がエリヤに出会ったときエリヤから告げられた神の厳しい裁きに対して取った態度と神の反応です。アハブほどの悪王はいなかったとかかれていますが、本当に彼は悪い男でした。しかし、その生涯に積み上げられた無数の罪にもかかわらず、一度、彼が悔い改める姿勢を見せると、神の憐れみの情は燃え上がり、許してしまうのです。彼はうちしおれて歩いたとあります。なんとなくユーモラスな感じさえするのですが、神様が裁くより許す方だということがよく判ります。これと良く似たケースがマナセ王です。彼もまたイスラエルの歴史上最悪の王の一人でした。

そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。

U歴代史33:11〜13  バビロンの牢獄の中で、もう状況には何の希望もありませんでした。しかし、マナセが悔い改めた時!なんと神は再び彼を王位につかせられたのです。驚きではありませんか。なんと大きな神のゆるし。ですから悔い改めると言うことがいかに大事なことかわかるのです。
悔い改めると言うことの実態を知っていたのはダビデでした。

主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。
あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。
あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。
私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。
私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。
私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。
私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。
私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。
主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。
私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。
しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。
まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。
それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。
私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。」
私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。
私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。
私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。
急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。詩篇38:1〜22


私は長い間、詩篇の一部が好きではありませんでした。これらのダビデの詩はあまりにも暗く、嘆きと苦しみに満ちているからです。そして、あの王の中の王と言われ、神の寵児として愛されたダビデにふさわしくないと思っていたからです。
しかし、年とともに、これらの詩篇の意味が判るようになりました。そして大いなる慰めを見出すようになりました。何度も何度も読み返し、悔い改めると言うことはこのようなものなのだと理解できるようになりました。神の前に人は、ただ悔い改めて、許しを求めて立つほかないのです。その時、神さまには備えがあります。

神は、そのひとり子をたまわったほどに、この世を愛してくださった。(口語訳)

そうです、神はそのひとり子を私にお与えになるほど、私を愛してくださいました。どうぞあなたも、この世というところを私と読み替えて、いつも口ずさんでください。