メッセージ    2002・2・24      小 石 泉 牧師

祭司と牧師


今日、司会者は私のメッセージの先触れをしてくれました。イザヤ書66章20節から指摘されたように、本当に私たちは受動的な恵みと能動的な恵みを与えられています。特に後者は神を賛美したり、自分を捧げたりすることによって私たちの側から神への働きかけが出来るという恵みです。また「同胞を連れてくる」とあることは、単に捧げ物ではなく福音を伝えることを意味しているわけで、これは新しい発見でした。
さて、この能動的な恵みは教会においての「祭り事」ということが出来ると思います。宗教というものは必ず「祭り事」が伴います。それは神への奉仕です。しかし、キリスト教会、特にプロテスタントにおいてはこの「祭り事」という分野が軽んじられているように思います。プロテスタント教会は人への奉仕を強調するのですが、神への奉仕、祭り事の意味と価値を認めなければなりません。教会は人の集団ですが、それはただ単に人のための集団ではないのです。教会はクラブではないのです。
旧約聖書においてこの祭り事はもっとも重要な要素でした。そのために祭司という人々が居ました。彼らの務めは第一に神への奉仕でした。そのためにレビ族という部族が選ばれ、その中から祭司団が選ばれ、その祭司団から大祭司が選ばれました。この大祭司はキリストの雛形でした。

彼らは、青色、紫色、緋色の撚り糸で、聖所で仕えるための式服を作った。また、主がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。出エジプト39:1

ここから大祭司の壮麗な服装が細かに書かれています。金銀宝石に彩られた華麗な衣装です。その価値は今なら数億円はするでしょう。それは大祭司の仕事の尊さを表わしていました。最後に頭にかぶるターバンを作りそこに聖別のしるしをつけました。

ついで、聖別の記章の札を純金で作り、その上に印を彫るように、「主の聖なるもの」という文字を書きつけた。39:30

祭司は聖別された人々でしたが、特に大祭司は聖別されました。しかし、この聖別という言葉は誤解されやすい言葉です。もともとの言語ではただ「取り分ける」と言う意味です。日本では毎朝、神棚にその朝のご飯を捧げる習慣がありました。そのご飯はおかまで炊いたご飯から取り分けたものです。別に特別なお米ではありません。質が違うわけでもありません。全く変わりのない普通のお米です。大祭司といえども他の人間となんら変わることのない普通の人間が、神の働きの為に「取り分けられた」ものに過ぎません。聖別とはそのように普通の人間がある目的の為に一定期間、聖なるものとされることです。しかし、なんとしばしば私たちはそれらの人々を、何か特別な人と思ってしまうことでしょうか。中身まで違うと思ったり、そう期待してしまうのです。
この大祭司の職務は現在の牧師などの教会の指導者に引き継がれています。次の御言葉を比較してみてください。

あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。出エジプト19:6

あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。申命記7:6

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。Tペテロ2:9


ペテロ先生は明らかにイスラエルとキリスト教会を同等のものとしています。それどころかパウロ先生は、今は教会がイスラエルに代わる選民だとさえ言っているのです。
さて、この祭司は普通の人間ですから時には失敗や過ちを犯します。

主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。主の使いはヨシュアをさとして言った。「万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。聞け。大祭司ヨシュアよ。あなたとあなたの前にすわっているあなたの同僚たちは、しるしとなる人々だ。ゼカリヤ3:1〜8


大祭司ヨシュアは汚れた服を着ていたとあります。これは服そのものではなく祭司の失敗を指しているのでしょう。それをサタンがとがめています。それに対して神さまは弁護されて言われました。「これは、火から取り出した燃えさしではないか。」なんとも胸に迫る言葉です。サタンよ、ヨシュアは所詮、人間、それも燃えさし、消し炭、何の価値もない者ではないか。私はこの言葉を本当にそうだと言えます。しかし、だからと言ってどうでもいいのではなく、その後を読むと、再び聖別されて「人々のしるし」模範になりなさいと戒めておられます。私個人的にはこれは厳しい。
祭司には二つの勤めがあります。一つは神への奉仕、二つ目は人への奉仕です。今の教会では、この内の二つ目が理解されていないと思います。プロテスタントではキリスト教の祭儀部分、祭り事が無視されすぎていると思うのです。どうか誤解しないでください、私は牧師や指導者が優れているとか、一般の信徒よりも優位にあるとか言いたいのではありません。それは普通の米粒です、しかし、牧師や指導者の祭り事の部分、神に奉仕するという聖なる部分を尊ぶということが忘れられていると言いたいのです。 神社に行った参拝者が神主さんのお払いに注文をつけるということはありえないのです。同じように牧師や指導者の勤めにも信徒が触れてはならない神聖な部分があります。
 しかし、だからと言って牧師や指導者に盲目的に従わなければならないというのではありません。ダビデはサウロ王を油注がれた王であるからと決して刃向かいませんでしたが、サウロが狂ってダビデを投げ槍で殺そうとしたとき逃れました。いくら油注がれた王だといっても殺されるまで従順で居る必要もないのです。もしあなたが自分はこの指導者の下では魂が養われない、信仰が成長しないと感じたら逃れることは許されるのです。

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。エペソ4:11〜13

牧師や指導者はこのような務めについています。それは信徒の上に君臨するのではなく、キリストの体を建て上げるための現場監督のような仕事です。それは次のような驚くべき言葉にも表わされています。

まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。アモス3:7

預言者というのも現在の牧師、指導者と考えられます。私自身、神さまが私のようなものでさえ尊ばれるということを感じて恐縮することがあります。このような勤めは恐ろしいものです。ですから次のような御言葉も忘れてはならないのです。

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。マタイ20:28

私たちの主でさえ仕えるものでした。まして指導者も同じです。また、誰が一番偉いのかという弟子たちの論争にこう答えられています。

あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。ルカ9:46

よく言われるように私たちはNo.1ではなくOnly1なのです。最後に牧師、指導者の本当にあるべき姿を読みましょう。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。ヘブル13:17


祝福のために、恵みの通り道として、祭司、牧師、指導者はいるのです。教会は人間の集団ですが、それはまた霊の国でもあります。霊の目で見なければならない部分は霊の目で見ましょう。霊で始めたことを肉で仕上げてはいけないのです。