メッセージ    2002・1・6    小 石 泉

私たちに与えられている権威−T


 人間は霊的世界でどういう位置にいるのでしょうか。これは大きな問題です。まず、創世記で人間が創造されたとき、次のように言われています。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。創世記1:26

人間は神のかたちに創造されました。そして地上の全てのものを支配する権威を与えられました。一方イエス様も同じように人間のかたちをとられました。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。ピリピ2:6〜8(口語訳)

イエス様が人間のかたちをとられたのは、もともと人間が神のかたちだったから当然といえば当然でした。そうしてみると人間とはすごい存在ではないでしょうか。
聖書には天使の創造については全く書かれていません。ですから比較の仕様が無いのですが、一体天使と人間とではどちらが偉いのでしょうか・・・? チャールズ・クラフトさんはその著書「私たちに与えられた権威」(I give you authority.)の中で、人間は天使の上に立つものとしています。しかし、私は、天使は国で言えば大臣や軍人や官僚のように宇宙を司る役目を負っている者であり、人間は王の家族のような存在ではないかと思います。私たちは神と血がつながっているわけではありませんが、特にクリスチャンはイエス様の血によって王家の子供とされた者だと思うのです。
しかし、アダムがエデンの園でサタンの惑わしに会い、罪を犯してから、人間の権威はサタンに移りました。人間はサタンに隷属するものとなったのです。

それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。使徒26:18

ですから、イエス様は第二のアダム〈最後のアダム〉として人間が本来持っていた地位と権威を取り戻させるために来られたのです。

聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。Tコリント15:45

私たちはイエス様によって救われ、罪許され、永遠の命を与えられました。ところが聖書をよく読むと、それだけではないのです。そしてこの点が、今、レベッカ・ブラウンさんとチャールズ・クラフトさんを通して私たちに新しく開かれている真理なのです。
結論から先に言うと、イエス様が嵐を静めたときのことを思い出してください。あの時、イエス様は「嵐を静めてください。」と神様に祈りませんでした。「静まれ、黙れ。」と権威を持って命じられたのです。これです。私たちは病の癒しの為に“祈って”きました。悪霊の追い出しの為に“祈って”きました。しかし、神様が、そしてイエス様が与えておられ、期待しておられるのは、私たちが“権威を持って命じる”ことなのです。そしてそれは、まさに聖書の御言葉の言っているところです。どうして今までそれが判らなかったのでしょうか。私たちはサタンに騙されていたのです。
間違えないでいただきたいのは、祈らなくていいというのではないのです。祈りと命じることとは別の次元のことだということなのです。イエス様は奇跡の前にも後にも神様との祈りの中で深い交わりをしています。

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。マタイ10:1
悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。マルコ3:15
イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。ルカ9:1


何度も何度もイエス様は弟子たちに、権威を与える、権威を与えるといわれました。そして弟子たちはそのことを実践し、体験して大喜びで帰ってきました。

さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ルカ10: 17~20

私たちはこれらの御言葉を読むと「ああ、これは弟子たちだから出来たのだ」と思います。しかし、この場合は十二使徒ではなく七十人の弟子とあります。また、マルコ16:17には同じことが全ての救われたものに命じられています。
クリスチャンは全てこのような権威を与えられているのです。それはイエス様の権威に拠るのです。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。マタイ28:18

そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。コロサイ2:10


それでもあなたは言うでしょう。イエス様は神だから出来たので私には出来ない、と。イエス様は聖霊に満たされるまで、一回も奇跡を行っていません。イエス様は天から下って人となられたとき、ご自分の天で持っておられた権威を全て置いてこられました。イエス様は私たちと全く同じであるためにわざわざ女から生まれたではありませんか。ですからイエス様はこう言っておられます。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。ヨハネ14:12


なんとイエス様がした以上のことさえできると言っておられます。この権威は、クリスチャンそのものにあるのではなく、全て聖霊によるのです。それは預かった力なのです。それを用いることについては、これもまた非常に重要ですから、改めて学ぶことにしましょう。