メッセージ 2001・12・16 小 石 泉 牧師
従 順
今日は皆さんが一番聞きたくないメッセージかもしれません。なぜなら人間の本質はこの言葉を嫌うからです。それは従順と言う言葉です。信仰とは神への従順であり、不信仰とは神への不従順です。サタンは不従順の典型であり、不従順はサタンの僕となることです。サタンは、もともとはルシファーと言う名の天使長でした。しかし、神のようになろうという欲望を抱き、神に反逆したのです。彼はエデンの園でアダムとエバを誘惑し不従順を教えました。それ以来人間は不従順の中に生きています。
それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。エペソ2:2〜3
もしあなたが、従順を学ばないなら信仰を捨てなさい。それは何の意味もありません。従順には祝福が伴い不従順は何ももたらしません。などと偉そうなことをいう私自身が最も不従順な者でした。私は神学校のとき、卒業の間際まで不従順な学生でした。しかし、ある先生から忠告を受けたとき、はっと気づいて残りのわずかなときを従順な学生として過ごしました。いささか遅きには失しましたが。
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。ローマ1:5
私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。16:25〜27
パウロ先生は自分の仕事は世界中の人々を神への従順に導くことだといっています。そしてユダヤ人が一定期間、不従順の反面教師としていることを教えています。
ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。11:30〜32
神に従順な人は教会や指導者にも従順です。私は神以外に従順ではないというならそれは偽りです。ただしこのような従順は、強制されたり、盲目的に従うことではありません。従順は自分で選択するものです。強制された従順は不従順と同じです。盲目的な従順はがけの上を目隠しして歩くのと同じです。自分が従順に従える指導者を見抜く必要はあるのです。
もしあなたが従順の模範を見たかったら、私たちの教会の長老さんたちを見てください。これは決しておべっかや下心があって言っているのではありません。いくつもいくつも失望したり、つまづくいたこともあったでしょう。しかし、淡々とこの教会、この牧師に従うと決めて、ついてきてくれました。彼らは牧師に従うのではなく、神に従っているのです。神が立てた指導者として牧師を認めるとき、神が報われます。牧師は何も報いることは出来ません。従順が強いだけ祝福も大きいでしょう。
あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。ローマ16:19
私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。Uコリント2:9
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。10:6
それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。Uテサロニケ1:4
パウロ先生は従順をこのように大切なこととして教えています。そして、それを喜んでいます。とりわけ「従順が完成になるとき」という言葉に注目してください。従順は成長するのです。それは救いに関わるのです。
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。ピリピ2:12
もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、ヘブル2:2
こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、4:6
ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。4:11
さて、私は従順など学びたくないという方が、もしまだおられるなら、次の御言葉を学んでください。
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり
5:8〜9
イエス様でさえ従順を学ばれたというのです! なぜ? しかも「苦しみによって」です。私たちにやってくる苦しみはやはり従順を学ぶ学校なのでしょう。
従順には祝福が伴います。ここには書き出すことが出来ないのでどうぞ聖書を開いてお読みください。申命記28章1~13節までです。
さて、旧約聖書のサムエル記でサウル王は従順の反面教師として現れます。サウルは、もともとは謙遜な人物でしたが王となると変わってしまいました。彼はアマレクとの戦争のとき、全てを絶滅せよという神様の命令に従わず、肥えた牛や羊を殺すのを惜しんで、神への奉納物という名目で残しておきました。サムエルは後から来て、それを怒り次のような印象的な言葉を語っています。
するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」Tサムエル15:22
神に聞き従うことはどんな捧げ物よりも優れているというのです。従順はその人の人格となります。それは美しい品性です。クリスチャンの品性の重要な部分です。それは選び取ることから始まります。いやならやめれば良いのです。喜んで従えるとき、従えば良いのです。そんないい加減な、と言われるでしょうか。不承不承、仕方なしに、いやいやながら従うなら神様もうんざりするでしょう。「心から喜んで」が聖書の原則です。