メッセージ 2001・12・9       小 石 泉 牧師

ジョン・レノンのイマジンと神

 あのニューヨークテロの後で、アメリカでひとつの歌が流行しているそうです。それは元ビートルズのジョン・レノンの歌ったイマジンという歌です。私はその歌を知らなかったので友人に頼んで調べてもらいました。そしてそれを翻訳してみました。それは次のような詞でした。

 想像してごらん、天国が無いことを そんなに難しいことじゃあない
 地獄なんてない 僕らの上には空があるだけさ
 想像してごらん人々がみんな 今日を生きていることを
 想像してごらん国が無いことを そうすることは大変なことじゃあない
 国のために殺すことも死ぬことも無いんだ 宗教だってないことを
 想像してごらん 人々がみんな 平和に生きていることを
 想像してごらん 個人財産がないことを
 貪欲も飢餓も必要ないことが想像できるかい
 人はみんなが兄弟なんだ
 想像してごらん みんなが世界を分け合っていることを
 僕が夢想家だって言うかもしれない
 だけど僕は一人じゃあない いつか君も仲間に加わって
 世界が一つになることを 望んでいるんだ

ここには神の無い福音が語られています。国家が無ければ戦争なんて無い。宗教は戦争ばかりを引き起こすからいらない。個人財産なんていらないみんなが平等に富を分け合おう。神を知らない人にとって確かに魅力的なメッセージです。ジョン・レノンはこのような宗教の宣教師であり、その宗教に殉教したのです。昔、私たちの教会にゴダイゴのスティーブ・フォックスを招いたとき、ある若い女性がジョン・レノンのことを非常に尊敬してキリスト教はどう評価するのかと聞かれたことを思い出します。
この宗教には二つの重大な視点が欠けています。それは世界を創造された神と、人の罪です。神を否定し、無視するとき、それは決定的な欠陥となります。それはそうでしょう、神が作った世界で神を認めなかったら世界に住む資格はありません。パウロ先生は当時もっともアカデミックなアテネのアレオパゴスで次のような説教をしています。

そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」使徒行伝17:22~31


「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」とありますが、人間の姿かたちを見てください。北国の人々は、皮膚は白く金髪です。それは少ない太陽光線を少しでも取り入れるためなのです。鼻が高いのも少しでも冷たい空気を暖めて肺に送るためです。一方、暑い国の人々は色黒です。それは熱い太陽から身を守るための自然のベールなのです。鼻も空気を暖める必要が無いので低めです。髪はなるべく熱を逃がすために短いちぢれ毛なのです。食べるものも北極圏の人々は三度三度肉を食べなければカロリーが足りません。一方インドの人々はベジタリアンが90%です。それは肉食でなくてもカロリーが足りるのです。中間の温帯に住む人々は皮膚の色は黄色、食べるものも肉や魚や野菜です。それは神様がそういう風に作られたのです。私たちは、「神の中に生き、動き、また存在している」のです。
しかし、この完璧な説教は、人々を説得することは出来ませんでした。パウロ先生は後にそのことを反省しています。

マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。Uコリント7:5〜6

そして、それからは十字架の福音だけを語るようになりました。

キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。Tコリント1:17〜25


さて、ジョン・レノンやオノ・ヨーコさんのように美しい心を持って何かを始めても、いつしか結果は悪いほうに向かってしまうと言うことが良くあるものです。それは人間には罪があるからです。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」ローマ3:10~18


なんと悲観的な、なんと人間に対する侮辱に満ちた言葉でしょうか。ジョン・レノンに「許しがたい」といわれそうです。しかし、これが人間の本当の姿なのです。そして、だからこそイエス・キリストが来られて人間を救うこととされたのです。それを福音といいます。パウロ先生はそのことを次のように語りました。

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。ローマ1:16〜17


天国なんて無い、地獄も無い、宗教なんていらない、神なんていない。信仰なんて邪魔になるだけだ、結局、あの歌はそう歌っているのです。しかし、私たちは信仰に歩みます。主イエスの血によって義とされたからです。そして、このような知識は決して人間の知恵によらないで、聖霊によるのです。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。Tコリント12:3

私たちはこの世のものではなく、神の国の者なのです。