メッセージ 2001・12・2    小 石 泉 牧師

神と偶像

今日は私に先週の余韻がありますので、あまりにも単純で何度も聞いたような説教になるかもしれないのですが、神様とそれ以外の神々、偶像について考えましょう。実は聖書の引用ばかりになるかもしれませんが、聖書だけで十分なのです。

初めに、神が天と地を創造した。創世記1:1

この言葉を言い換えれば、「天地を創造した神がいた」のです。天地宇宙に依存し、その中から出てきた神ではなく、また人間が作った神でもなく、天地を創った方が私たちの信じる神なのです。聖書はこうも言っています。

あなたがたは、彼らにこう言え。「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる。」と。エレミヤ10:11

さて、太陽と月を考えて見ましょう。

ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。
それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。
こうして夕があり、朝があった。第四日。創世記1:14〜19

ここで太陽、月という名が出てこないのは、そういう名前自身が古来、偶像の名前だったからだという解説を読んだことがあります。エジプトのラーに始まり、世界中に太陽を礼拝する宗教は無数にあります。また月もルナなどの名前で礼拝されていました。
太陽は内部で原子核融合という化学反応が起こっている水素(?)の塊です。原爆のように一瞬に破壊するのではなく静かに燃えている火です。何百億年と燃え尽きることなく光と熱とを送り続けているこの不思議な物体は確かに大きな神秘ですが、それ自体何の意思表示も無い無機物に過ぎません。考えることも無く、ましてや人間に語りかけることもありません。その恩恵を感謝するなら、太陽ではなく、創った神に感謝すべきです。
月についてはアポロ宇宙船を思い出します。アポロ計画で持ち帰った月の土には大小さまざまの大量のガラス球が入っていました。私はそれを見たとき感動しました。何という知恵でしょうか。夜、道路標識に車のライトが当たるとピカッと光りますがそれは標識のペンキにガラスの粉末が入っているからなのです。ガラスの粉末は乱反射を起こし、明るく均等に光を反射します。月が球体なのにお盆のように平らに均等に太陽光線を反射するのは土の中にガラス球が入っているからなのです。月は世の初めから反射板として作られていたのです。誰が考えたのですか? こんなことが偶然起こることはありえません。誰かが計画し設計し造ってそこに置いたのです。これはほんの一部に過ぎません。世界は神秘に満ちています。だからパウロ先生は次のように言いました。

なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。ローマ1:19〜25


この点についてパスカルは「自然は神を認識するには不十分な知識と、神を否定するにはあまりにも十分な知識を与えている」と言っています。確かに聖書と神の霊によらなければ自然だけから神を知るのは難しいのですが、もし、謙虚な思いで自然を見るならば、そこに神が見えてくるはずです。
昔、ロシアの村に謙虚な夫婦が居ました。ある時奥さんが手を見ながら「ねえ、あなた手ってうまく出来ているわね。こうして親指と他の4本の指が向かい合っているから、物がつかめるの。これって絶対に誰かが考えたのよ。私はこの手を作った方を信じるわ。」それから夫婦は“手を作った方”に祈りを捧げていました。あるときその村にキリスト教の伝道者が来て天地を創造した神について語りました。するとそれを聞いていた夫婦が叫びました、「それは“手を作った方”ですか!」。
このような神を人間は物や形に似せて作って拝みます。それは神様がもっとも嫌うことなのです。非常に長い引用になりますが途中で切れないのでお読みください。

偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。イザヤ44:9~20

法隆寺の弥勒菩薩の前で、奈良の大仏の前で、あるいは他の像の前で人々は自分たちを救ってくれるように祈ります。しかし、それらはみんな人が作ったもので命も無く人を救う力もありません。もし何らかの力があると言うならそれは悪霊が働くのです。最近もさる有名な寺院が焼けましたが、その中の貴重な?仏像が焼け焦げて運び出されました。白い布に覆われた炭をどうやって補修しようかと僧侶たちは悩んでいました。

あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。
あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。
目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。・・・あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。イザヤ40:18~31


「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。」「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。」このような御言葉に会うと私の胸は高鳴ります。そしてどうして何も出来ない偶像に手を合わせ、救助を求めるのだろうと不思議に思います。サタンは人間の目をくらませ、愚かにしています。今、人間は創造されたときよりはるかに霊的な物事に無知で愚鈍になっているのです。神様はあなたを呼んでいます。
「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。
私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。ホセア6:1〜6

「さあ、主に立ち返ろう。」「主を知ることを切に追い求めよう」このような熱心な神の呼びかけに答えてください。
最後に聖書は単なる形だけを偶像と呼んでいないことを覚えます。

あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。エペソ5:5

厳粛な思いで御言葉の意味を思います。それでも主を愛し、主を求めるものを、主は拒まれることはありません。どんな立派な捧げものより主を切に求めることこそ大切なのです。