メッセージ 2001・10 ・ 21 小 石 泉 牧師
終わりの時に
主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。
ハバクク1:2〜4
先日のテレビでアフガニスタンでは今年100万人の難民が凍死するだろうと日本人の国連高等弁務官が言っていました。前の国連高等弁務官だった緒方貞子さんは、世界はアフガニスタンを見捨てたと言っています。すでに600万人の難民がいるのです。幼い子供が傷つき、兵士でもない市民が死んでいます。私は最近北朝鮮の難民を見てきたばかりです。どうしてこのようなことがあるのでしょうか。私もハバククのように神様に訴えたいです。暴虐は地に満ちて、ノアの洪水の前のように見えます。私たちは思います、いつまで神様は介入されないのだろうか。なぜもっと早く、正義と愛を持って世界を救ってくださらないのだろうか。
創造というものは造られたものが自分で動く状態を言います。神様は地球を毎日回しているわけではありません。地球は造られたその日から定められたように動いています。人の世も神様はいちいち介入されません。人間が自分で考え自分で動くように定められているのです。しかし、サタンの働きが盛んになり、恐るべき事態が起こり、世界が危機に瀕するとき、神様は介入されるでしょう。間もなくその日が来ます。使徒ペテロは次のようにそのことを言っています。
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。ペテロT4:7〜10
「万物の終わりが近づきました」使徒ペテロがこう言ったのは、何と2000年も前のことです。使徒たちは確かに世の終わりとイエスキリストの再臨を自分たちの時代に起こると思っていたようです。パウロ先生もコリントの手紙などで結婚をしないように勧めていますが、それは同じように終末が近いと思っていたからです。そして、事実、その直後に大迫害が起こったのです。結婚どころではなくなりました。しかし、それから2000年経って、今こそ、そのように時代になりました。このような時代にどう生きればいいのかペテロさんの忠告を心に留めましょう。
「万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。」(口語訳)
まず、心を確かにし、整えること。うろたえずに冷静に物事を見つめること。身を慎むこと。努めて祈ること。互いに熱心に愛し合うこと。そして不平を言わず、もてなし合うことです。世の終わりに向かって、愛し合うことが条件として挙げられていることは興味深いことです。そして互いに仕え合いなさいとあります。そんなことが終わりの時代のサバイバルに有益なのでしょうか。そうです聖書は真理の書です。愛と祈り、それがいつも変わらない人間の必要条件なのです。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。4:12〜13
燃えさかる火の試練。その当時、それはすぐにやって来ました。そのとき喜びなさいと言われています。そんなことが出来るものでしょうか。私たち人間はある種の目的のためにならどんな困難も乗り越えられるものです。日本の神風特攻隊も中には嫌がって帰ってきた人もいたようですが、大半は使命として喜んで死んでいったのです。私たちは自分の失敗や、犯した罪や、目的のない試練には苦しむものですが、正しいこと、神のためなら喜んで命を投げ出せるものです。喜び踊るものとなるのです。
もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実でれる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。4:14〜19
私たちが苦しみに会うとき神様は栄光の御霊を私たちの上に留まらせてくださいます。私たちが人殺し、盗人、悪を行う者として苦しみを受けることがあってはならないのは良くわかっていますが、「みだりに他人に干渉する者」という警告があるのは面白いですね。これは案外多いのですよ。余計なおせっかいをクリスチャンはしがちですから気をつけましょう。
わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。エレミヤ30:21
この際、そうです万物の終わりが本当に近づいているこのとき、はっきりと主の御声を聞き取りましょう。あなたは神に近づくために命をかけますか? 人間はもっとつまらないもののために命をかけるのです。失恋、入学試験、就職、などなど。でもどうせ死ぬなら本当に価値あるもののために命をかけましょう。
もしあなたが人生の中でつまづき、道に迷ったことがあり、今もその傷に痛んでいたとしても主は言われます。
おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。31:4
あなたは建て直されます。あなたは喜び笑うものたちの踊りの輪に出てゆきます。それが神様の願いです。それが約束です。
諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。」と。主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、羊の子、牛の子とに対する主の恵みに喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。・・主の御告げ。・・」31:10〜14
どんな悩み、苦しみ、迫害が起こっても、主の御心はこのようです。私たちの周りの社会は騒然として、人々が不安にかられていても、戦争やテロや思いがけない事件の中に巻き込まれたとしても、あなたには主の守りがあるのです。悲しみを喜びに、憂いを慰めに変えてくださいます。 わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。アーメン。