メッセージ 2001・9 ・23   小 石 泉 牧師

永遠を思う者

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。伝道の書3:11(口語訳)

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。  同(新改訳)


ソル先生のご主人、私たちの愛するユン長老を天に送りました。永遠がまた近くなりました。永遠、それは人間が人間であることの証明をするものです。チンパンジーのDNAと人間のDNAは98%が一致するそうです。そうだとしてもチンパンジーには永遠は判りません。これは、霊のことだからです。霊は人間にしかありません。神様が人間に与えられた永遠を思う思いは、それこそ霊的存在である人間を証明するのです。
だから人間は宗教を作ります。神に会いたくても、その道が判らなくて必死になって求めます。人間にだけ宗教というものがあるのはそのためです。人は宇宙を見ながら考えます、なぜ永遠があるのだろう。宇宙はどこまで続くのだろう。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16

有名なこの御言葉は人間が永遠のいのちを持つことが出来る絶対的な保障です。それは御子イエス様の命によって与えられました。神の御子が罪なくて死んだとき、死の方程式が変わりました。死は罪から来ます。しかし、罪のない神の子が死んだとき命があふれ出ました。御子を信じるものはその命を受け取ることが出来ます。

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」同4:14

永遠のいのちはイエス様が与える水です。それは泉となりあふれ流れるのです。

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。同6:51〜58

 永遠のいのちは天から下ってきたパン(マナはそういう意味)であるイエス様を食べると与えられます。イエス様の肉、血がまことの食物、まことの飲み物です。
それにしても奇妙なたとえを使われますね。私はイエス様が永遠のいのちを何とかして教えようとして四苦八苦しているように見えるのです。本来、到底人間の言葉では表わしきれない巨大で高貴ですさまじい祝福を、何とかわからせようとして苦心しておられます。百聞は一見にしかずといいますが、本当に永遠のいのちを与えられたとき初めてこれらの言葉が判るのでしょう。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。同17:3

 これもそのひとつです。永遠のいのちという言葉は単なる長い命ではありません。それは命の特別な形態なのです。それは神とキリストを知る、非常に密接になる、完全につながるとき与えられるものなのです。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。Uコリント4:17〜5:1

私たちは見えないものに目を留めます。私たちの周りの人々は、金、名誉、地位、家柄、美しい家、衣服、おいしい食べ物、旅行などに目を留めています。しかし、それらのものはすべてこの世だけで終わってしまうものです。永遠の家には持って行けませんし、第一、永遠の家に行くことさえ出来ません。そして、

この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。へブル13:14(口語訳)

この地上には永遠の家はありません。エホバの証人は地上の天国を約束しますが、聖書ははっきりとそれを否定します。私たちの目は見えないもの、霊の世界に向けられます。この世の人とは全く違う価値観、人生観、宇宙観です。

このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。マルコ8:38

さあ、この永遠のいのちに入るためにイエス様の声を聞いてください。「わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、わたしもその人を恥じます」。どちらかを選ばなければなりません。イエス様に従うか、それともこの世に従うか。電車のドアの前でホームと電車の両方に足をかけていては非常に危険です。電車に乗るなら乗る、乗らないなら乗らない。どちらかにしなければなりません。二つ掛け持ちは出来ません。そんなことをするならむしろ信じないほうが身のためです。
永遠のいのちを選ぶか、この世を選ぶか。人間は永遠を知っているので、返って悩むのです。永遠は神と直結しています。ですから神に生きるしかないのです。