メッセージ 2001・ 9・9   小 石 泉 牧師

クリスチャンの経済学

今年の夏、私は湯沢にある、ある団体の保養所に行きました。そこは一泊1000円で泊まれる温泉付マンションなので時々利用していました。しかし、いつも強烈な印象を受けるのでお話ししないではいられないのです。それは無人の街なのです。バブル最盛期に、湯沢には次々とリゾートマンションが建てられました。その数は数十棟になるでしょう。それぞれの建物には数百の部屋があるので、全部で数千の部屋があり、そのほとんどが無人のままです。小さなワンルームマンションが一軒何千万円で売られましたが、バブル崩壊と共に買い手がなく今は数百万円で売っても買い手はつきません。実に「つわものどもが夢の後」とでもいう空しい風景です。土地神話の時には土地は永遠に上がり続けるとみんな信じていました。株で大もうけした話もありました。しかし、今はみんな、はかない夢と消えました。株は十数年前の価格まで下がり、ゴルフ会員権なども紙切れ寸前です。ここまで株が下がると銀行は倒産するかもしれません。株は銀行の主要な資産ですから。今、聖書の警告が実に真実味を帯びてきています。

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」ルカ12:16〜21
これはまるでバブル期の日本みたいです。命がその晩取り去れなくても、お金は現在のようにはかなく消えてしまいます。何の説明も要らないぐらいです。こういう時代に、私たちはどう考えどう生きたら良いのでしょうか。
持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。同12:33~34


宝とか富と言う場合、私は、昔は貯金そのものを言うのかと思っていました。しかし、年をとるに連れて、そうではなく、私たちが子育てや、教育への準備や、マイホームや、老後のために蓄えることを意味しないと思うようになりました。それは富や宝ではなく生活費でしょう。富とか宝というのは使い道のない金を言うのです。しかし、もちろんレプタ二つをささげた女のことは忘れてはいけません。時には生活費の中から神への心からの感謝をささげることは良いことです。

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。Uコリント9:611

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」聖書は率直です。私たち日本人の牧師ならもう少し柔らかく言いたいところです。オブラートに包んであいまいに、刺激が少ないように。でも聖書は他に言い逃れできないほどはっきりしています。でも、とあなたは言うでしょう、今の時代私には蒔く種もありません。ところがどっこい「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」蒔く種まで与えてくださるというのです。あなたは祈ったことがありますか? 主よささげるために与えてくださいと。そうするとき「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」何とすばらしい約束。こういう御言葉に出会ったらそのままにしないで自分のものにしてください。確実に実現させて頂いて下さい。
そうすれば、「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。」とあります。これは神様が私たちに与えられた信仰のチャレンジです。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」Tコリント2:9

私たちに備えてくださっている神の祝福は「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。」なのです。私たちは案外これが判りません。信仰者でありながら「目が見たことのあるもの、耳が聞いたことのあるもの、そして、人の心に思い浮んだことのあるもの」だけを求めています。私はこれがよく判ります。私たちの教会が歩んできた道はまさにその逆でしたから。まして未信者だったら一層判らないでしょう。人々はいつも「目が見たことのあるもの、耳が聞いたことのあるもの、そして、人の心に思い浮んだことのあるもの」を求めています。信じましょう。神様の驚くべき祝福を受けてください。その際、常識や理性に捕らわれず大胆に求めてください。もっとも私は常識や理性を失っているわけではありません。信仰とはそれを超越するものなのです。

また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。Tテモテ6:19

世の中がどう変わろうと。不況が押し寄せようと、私たちに対する神の約束は変わりません。私たちは未来に備えて良い基礎を自分自身のために築きます。それはこの世のやり方ではなく、神の国の方法です。それは蒔く種と食べるためのパンを備えてくださる神様に支えられて歩む道です。