メッセージ 2001・9・2 小 石 泉 牧師
小 犬 の 権 利
それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。マタイ15:21~28
人間の歴史は知られている限り約6000年です。それ以上という人もいますが、聖書もそう言っています。神に創造された人間はエデンを追われたのち、たちまち神を忘れ勝手に生きてきました。約4000年間、ユダヤ人以外のほとんどの人間は心の闇のなかに暮らしてきたのです。神様はユダヤ人の中に神の知識と救い主が送られると言う約束を与えられてきました。ユダヤ人たちはランプの中の灯のように静かにそれを守ってきました。
これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」マタイ4:14~16
これはイエス・キリストの700年前の預言者イザヤの言葉でした。そしてそのとおりに、今から2000年前にイエス・キリストが現れ、神の子の福音がその後の世界を照らしました。ヨハネはその感動をこう表現しています。
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、ヨハネ1:1
私はこの表現が好きです。まるで本当に実感したことを素朴に、だからこそ力強く印象付けるのです。さて、冒頭の御言葉はそんなイエス様が闇の中にいた異邦人の女に対したときの出来事です。このカナン人の女はイエス様をメシヤとして知っていました。おそらくユダヤ人から聞いていたのでしょう。彼女は自分の娘のいやしを痛切に訴えました。しかし、何ということでしょう、イエス様の返事は冷たいものでした。「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」これは明白に異邦人への拒絶の言葉です。
私たちは時々思い違いをしています。“神は人を救わなければならない”と。教会は人を救うところだからもっと親切であるべきだ。もっと愛をもって接すべきだ。それはそうですが、その前に贖い(救い)は神の義務ではなく恵みは人間の権利ではないということを知っておいてほしいのです。神は人間を全く自由な存在に創造されました。それは罪を犯す欠点を持っていた欠陥品なのではなく完全だったのです。人間は神と同等の自由を持つ完成品でした。しかし、人間はその自由で神に従わない道を選んだのです。だから神様には人間を救わなければならない義務などありません。それは一方的な哀れみ、信じがたい恵みであるのです。ところが私たちは、救いは神の義務であり、恵みは人間の権利であると思う間違いを犯しがちです。
「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください。』と言った。すると、イエスは答えて、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。』と言われた。」
何とイエス様は異邦人を小犬と表現しています。これはそれほど軽蔑をこめた言い方ではなく例えの表現でしょうが、今の人間なら失礼な言葉だと思ったかもしれません。昔でもローマ人なら無礼な、と怒ったことでしょう。実はイエス様はこの女を試しておられるのです。
「しかし、女は言った。『主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った。」
この女は徹底的にへりくだっていました。「そうです私は小犬のように価値のないものです、でも小犬でも食卓から落ちるパンくずはいただきます。」イエス様の心に深い感動があふれました。「女よ、あなたの信仰はりっぱです。」昔の聖書では「あなたの信仰は見上げたものだ。」神に見上げられる信仰とは何とすばらしい信仰でしょうか。この女が怒って去ったら話は終わりでした。しかし、この女の言葉は永遠に聖書の中に刻まれたのです。そして人は神の思いもかけない信頼を神にお返しするものでもあるのです。
アブラハムは神の友と呼ばれ、モーセは神の代理人とされ、ダビデは神の寵児でした。この女も神の信頼を勝ち得る人間の一人でした。しかし、考えてください彼女は偉大な働きをしたから神の信頼を受けたのではなく、ただへりくだったのです。信仰とは神の前にへりくだることです。へりくだりは神(キリスト) の御性質であり、傲慢はサタンの性質です。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。ピリピ2:6〜8
あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。エゼキエル28:17
そして信仰とは自ら求めるもの、自発的なものです。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。マタイ7:78
それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。マルコ8:34〜35
それは熱心に求めることなのでイエス様は攻めると言う言葉を使っています。
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。マタイ11:12
もっとも日本でそんなことを言っていたら人は来ませんから、私たちはどちらかと言うと平身低頭、お願いして信じてもらうといった有様です。しかし、本当はあのカナンの女のように自分を小犬のようにへりくだって受け取るべきなのです。
今、私たちはイエス様の恵みによって子供とされ食卓につくものとされました。しかし、パンくずをいただいた者であることを決して忘れてはなりません。それこそ神が驚き、イエス様が心から感動した信仰なのです。
《ちょっとひとこと》
人間の歴史の内、3分の2は何の希望もない暗黒の時代だったということはキリストの誕生を経験したその後の3分の1の人には判らないことではないでしょうか。もっとも福音が伝えられていない場所は全く同じことではあるわけです。人々は真理に飢え渇いているので、その心の空白を満たすためにさまざまな宗教を作り出したのです。しかし、真理が来ると喜んで迎える人々もいました。日本のキリシタン大名などは歴史の教科書では貿易の利益のためにキリシタンになったなどと書いていますが、実際には福音を聞いて非常に喜び、心から信じた場合が多いのです。ですからキリシタン迫害が起こり、キリシタンをやめるか大名をやめるかと迫られたとき躊躇なく大名をやめ、家来の泣く中を静かに家族と城を出て行った大名もいました。
もうひとつ面白いのは日本の歴史はせいぜい2000年です。私の生まれた昭和15年は日本の紀元2600年と大騒ぎしましたが、実際には原田常治という方の優れた研究では2000年ぐらいです。ところがその先となると突然原始時代になるのです。世界の歴史ではその先に4000年間エジプト、メソポタミア、インダス、黄河などの多くの偉大な文明が栄えたのです。これは非常におかしなことですが日本人はあまりそのことを深く考えません。
聖書を読むとき、アブラハムが今から約4000年、モーセが3500年、ダビデが3000年前です。日本の歴史と比べてみてください。縄文式土器の原始的な類人猿的?生活が想像されている時代に、まるで彼らの息遣いが判るような生き生きとした文章が今に残されているのは実に不思議なことと言わねばなりません。