メッセージ 2001・8・26   小 石 泉 牧師

私は福音のために何でもする

 今朝、司会者が今朝のメッセージに大変ふさわしい聖歌を選んでくれました。もう一度皆さんとこの522番を歌いましょう。

1.地の塵に等しかり、何一つ取り得なし、今あるはただ主の、愛に生くるわれぞ
  御救いを受けし、罪人に過ぎず、されど我、人に伝えん、恵み深きイエスを
2.罪の世を望みなく、幾年か迷いしを、ただ君が愛もて、救いませるわれぞ
3.もし恵みなかりせば、早滅び果てしならん、あるはただ罪のみ功しなきわれぞ
4.されば世にある限り、主を歌い主を伝えん、滅びより命に移されたるわれは

これは私の献身の歌であり、結婚式の歌であり、生涯の歌でした。
さて、先週の木曜日の朝の3時ごろでした。私は長いはっきりした悪夢にうなされて目覚めました。それは父の友人である真面目で熱心な伝道者に追いかけられる夢でした。もう亡くなって20年ほども経っていました。なんでこんな夢を見たのだろうと考えました。私はその人の信仰が好きではありませんでした。熱心のあまり子供たちに大きな負担をかけていました。一方、最近驚くべきニュースを耳にしました。韓国の偉大な教会で献金袋が集められると、すぐに借金取りがその金を持っていくといういやな話です。これも牧師の子供のためだと言うことでした。私はクリスチャン二世としてこういう風な失敗を見てきました。信仰にはバランスが必要です。しかし、一世のあの熱心も失われてはならないものです。多分そのためにあの悪夢を見せられたのでしょう。

それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。マルコ8:34 〜37

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
マルコ10:29 31


信仰を持つとき犠牲を伴います。とりわけ福音のために立つ人は大きな犠牲を強いられます。しかし、先週の北野先生のお話のように、一時は家族を捨て、家族に捨てられたとしても必ずもっと大きな祝福がやってきます。自分を捨てるとき私たちは強くなれるのです。福音のために自分を捨てるものが結局命を得るのです。そして、皆さんも結局はみな伝道者なのです。

神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ  ローマ1:1

パウロ先生は自分が福音のために選ばれ、使徒として召されたと言っています。これは、本当はおかしな話なのです。使徒と言うのはイエス様が地上におられる間、一緒に行動した人を言うのです。しかし、パウロ先生は、自分はイエス様に直接選ばれた使徒だと強硬に主張しました。それどころか第一コリント書11章では、まるで自分が最後の晩餐の席にいたように書いています。パウロ先生は確かにその場所にはいなかったのです。しかし、その後、幻のうちに自分もその場にいるのを見たのです。
さて、これはあなたとは関係ないことでしょうか。あなたは牧師に召されたのではない。伝道者でもない。まして使徒なんかじゃあない。しかし、あなたの周りにパウロ先生がいますか? ダビデ、モーセ、アブラハム、エレミヤ、イザヤのような人々がいますか? あなたの街、職場、学校で待っていればルターやカルビンが来てくれるのですか? いいえ、あなたの周りにはあなた以外の伝道者、牧師、そして使徒はいません。
イエス様はあなたに期待しています。福音のためにあなたが立つことを。

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、・・私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、・・律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。コリントT9:1923

日本で伝道していると本当に難しいなと思います。私は本を書いたり、最近では結婚式をしたりしています。何とかして福音を伝えたいのです。福音をそのまま伝えてもなかなか日本人は聞いてくれません。それでいろいろな方法を考えるのです。パウロ先生は、自分は奴隷になったと言いました。何とかして幾人かを救うために。何という激しい献身、何という愛。これが本当の愛の姿です。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。ピリピ4:13

私は福音のためなら何でもする、と言うような御言葉があったように思うのですが見つかりませんでした。代わりにこの御言葉を見つけました。私たちは福音のためならどんなことでもできるのです。
私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。コリントU13:8
私たちは真理の為に何でもできます。社会改革や福祉のために働くのも良いことですが、それらすべては福音に結びつかなければなりません。私たちは素朴な福音を伝えるように心がけるべきです。ともすると福音ではなくて混ぜ物、この世的な贋物が取って代わってしまうのです。これは本当に気をつけないと良く起こることなのです。癒しだ奇跡だリニューアルだと騒がしく動いていますが、静かで素朴で純粋な福音が忘れられています。その結果、思いがけない悲劇が教会に起こってきます。

神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。テモテU4:12

 パウロ先生が「おごそかに」という言葉を使って、愛するテモテに言ったのは御言葉を述べ伝えなさいでした。それが最も重要なことでした。これは遺言ともいえる言葉です。そしてイエス様も昇天されるとき言われたのも「全世界に出て行ってすべての創られたものに福音を伝えよ」でした。
教会はとかく弱者の療養所のように思われがちですが、使命を持った集団です。それは時に命がけの使命であり、この世で最も尊い使命なのです。「福音を述べ伝えなさい時が良くても悪くても。」それはクリスチャンの最高の使命です。弱いものへの思いやりも失ってはいけませんが、最終的に弱いものも強くされなければなりません。「私は弱いときこそ強いのです」とパウロ先生も言っています。
ただ福音のために、生きましょう。あなたの生涯を。