メッセージ 2001・ 8・ 12   小 石 泉 牧師

備 え る

 先週の新聞に、少年院に入っている子供たちの50%は幼児のころに親から虐待を受けているということが書かれていました。いわゆるトラウマ、人間が幼少時に(成人してからも)受ける肉体的、精神的な苦痛による心の傷の影響というものは本当に深刻なものだと痛感しています。クリスチャンになってからもなかなかその傷がいやされず、苦しんでいる人々を見るとき何とかしてあげたいといろいろやってみるのですがはかばかしく行きません。今日は御言葉からそれを試みましょう。

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。マタイ25:1〜13

これはクリスチャンのことを表していると思われます。クリスチャンの半分はキリストの再臨、あるいは突然の来臨や死に対して準備ができていない可能性があるというのです。5人の乙女たちは賢くてランプの中の油のほかに予備の油を用意していました。しかし、ほかの5人はそういう備えをしていなかったのです。未来に備える、起こるべき事態を前もって予測し、準備することは大切なことです。もし、私たちが過去や現在にだけ心奪われて、未来に対する備えや希望を持っていないのならこの愚かな5人の乙女と同じことになってしまいます。
過去はもうどうしようもないのです。希望は未来のものです。過去をうめき苦しんでも何も生まれてきません。そんなことは百も承知で、それでも沸き起こってくる過去の記憶と戦っているのがトラウマにとらわれた人であることは判ります。しかし、クリスチャンは未来に目を向けなければなりません。そう決断しなければなりません。油を備えることに心を向けなければなりません。ランプの中の油だけでは足りません。過去は未来を補充しません。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。Uコリント5:17

この有名な御言葉をもう一度読み返してみましょう。自分を見るとき、そうは見えないかもしれないのです。新しくなんかなっていない。相変わらず古い自分が強固にそこにあるじゃあないか。たしかにそう見えます。しかし、トカゲの尻尾が体から切られてもしばらくは動いているようにあなたの過去ももうキリストの血によって過ぎ去ったのです。聖書が見よすべてが新しくなったというのですから信仰によって信じましょう。
私たちはクリスチャンとしての人生を築き上げることを神様から期待されています。

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。Tコリント3:10〜17

これもクリスチャンのことです。人生の土台はキリストです。それは強固にあります。しかし、その上にクリスチャン人生を築くのは自分の責任です。同じ土台でも、建てる家、人生は金、銀、宝石、木、草、わらのようにそれぞれの人生は違ってきます。最後のときにその人の人生が神の試験の火に会うとき、本当の価値が評価されます。
では、本当に価値ある人生とは何でしょうか。それは永遠に続くものがどれくらいあるかによります。どんな見事な家に見えても、立派な人生に見えてもその人の死によって失われてしまったらそれはわらの家です。それでも火の中を通って来た者のように、救われることは救われるのです。またクリスチャンは神の神殿ですから自殺してはなりません。そればかりではありません。私たちが神の僕であるなら次のような言葉も頭に入れておくべきです。

ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」ルカ17:7〜10

 最近の傾向として、神の愛、祝福、癒しが強調されています。しかし、上の御言葉は神の本当の僕、アブラハムの僕エリエゼルのように徹底的に忠実で従順な僕としてのクリスチャンの姿を表わしています。神に愛されている。あなたは高価で尊い。それは当然ですが、そこを通り過ぎて、神の信頼を受ける僕の姿を見たいのです。あなたは神に愛されています。しかし、神の信頼に答える僕になりたくはありませんか?一生懸命、主人のために働いても、主人がほめてくださるどころか、次の仕事を言いつける。それは完全な信頼の証です。それに対して、立派に仕事をした後で「私は役に立たない僕です、なすべきことをしただけです。」かっこいい!これが本当の神の僕ですよ。いつまでも、ホイホイおだてられていなければならないのはまだ初心者です。
 やがて私たちは、神の前に行きます。再臨のときか、天寿を全うしてか、不慮の死によってかはわかりませんが。そのときあなたは知るでしょう。本当に価値ある人生を自分が送ってきたかどうかを。そのとき、平安に目覚めることが出来るでしょうか。

しかしわたしは義にあって、み顔を見、目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう。(口語訳)
しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。(新改訳)詩篇17:15


 多くの人々が、一生懸命この世で生きて、死ぬときに「ああ、私の人生って何だったのだろう。私はなんと空しいことに人生を費やしてしまったことだろう。」と嘆くのです。永遠に続くもののために何かが出来ただろうか。それが本当の価値基準です。それ以外は火の中に焼け崩れてしまいます。これは狂信的な言葉ではありません。なぜなら死はすべての人にいつ訪れるかわからないのです。家も財産も名誉も地位も名声もすべては墓の向こうには持って行けません。しかし、人々にキリストの救いを教えるときそれは永遠に続きます。あなたが伝道して教会に連れてきた人が救われたら、その人は永遠に残ります。これほど価値あることはありません。そうでなければ、その人は永遠に失われるかもしれないのです。このことはものすごく大事なことですが、私たちはとかくそこから目をそむけてしまうのです。今日、あなたの友達のために祈りましょう。そうしているうちにあなたの中の傷なんてもうどうでも良くなるはずです。備えましょう。自分と人のために。花婿が来られるときは近いのです。