メッセージ 2001・8 ・5 小 石 泉 牧師
喜 び
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。テサロニケT5:16〜18
これは実に難しい要求です。人間はいつも喜んでいることなど出来ません。しかし、神様は私たちがいつも喜んでいることを願っています。
人間が最初に造られたとき、イエス様は「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」箴言8:30~31と言われています。そして人間が最初に住んだ場所はエデンでした。エデンとは「喜び」それも「大きな喜び」という意味です。この宗教は喜びに始まり喜びに終わるのです。ではその喜びはどこから来るのでしょうか。
そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」ネヘミヤ8:10(口語訳)
この箇所は新改訳では逆の意味になっていますが、もともとは「主によって与えられる喜びが、あなた方の力です。」と言う意味ですから口語訳聖書を採用しましょう。
そうです喜びは主から来ます。主を喜ぶとき私たちには力が与えられます。それにしても神を喜ぶとはどういうことでしょうか。私たちはどちらかと言うと、むしろ神を恐れ、厳格な神の前にひれ伏すことを要求されてきました。しかし、神はご自身を喜ぶことを願っておられるのです。人間がどうして神の義にかないましょうか。むしろ弱く罪深い自分を神にゆだねて喜ぶことを求めるべきです。
イエス様は十字架にかかられる前ですら喜びについて語っておられます。
イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。ヨハネ16:19〜22
イエス様が取り去られる。そのような驚きと悲しみの後に、喜びが来る。そうです弟子たちの誰が、死者の復活を予想したでしょうか。そのような喜びを想像したでしょうか。喜びは悲しみの後では一層大きなものになります。
光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。詩篇97:11〜12
新改訳聖書はかなりひどい訳が多いのですが、時々、きらりと光るすばらしい訳を提供してくれます。ここもすばらしい訳です。光は種のように蒔かれている。正しいものたちよ、主にあって喜べ。聞いただけでも心が躍ります。
私は最近、ウエイン・コデイロ先生のテープにヒントを得て、変わったことを始めました。それはコデイロ先生がハワイ島からオアフ島に移るとき、1年前からオアフ島の地図を見ながら、その通り通りの名前をあげて祈ったと言う話を聞き、犬と散歩するとき一軒一軒の表札を読みながら祝福を祈るのです。前に船橋の教会の近くにエホバの証人の集会所が出来たとき、やはり毎日、犬と散歩するときにその前で「エホバの証人の霊よ、ここから出て行け、立ち去れ」と声に出さないで祈り、ついにそこが閉鎖になったことを思い出していました。この御言葉とは直接関係ありませんが、光を蒔いているつもりです。
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。100:1〜4
神に仕えることは喜びです。そして私たちは大きな喜びをもって教会に集いましょう。「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」私はこれが人間の存在理由だと思っています。主は喜びを持って私たちを造られました。私たちは喜びをもって主に仕えるべきです。義務や恐れではなく。
主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。126:1〜6
人間は本当にうれしいとき、思いがけない幸運に巡り合ったときなど、げらげら笑うものです。私たちは最初の会堂になる建物を与えられて、その屋根の合掌が奇跡的にトラックで運ばれるのを見たとき笑いが止まりませんでした。不思議な笑いでした。しかし、意味なく笑うのではなくちゃんと意味があって笑うのでお間違いなく。
多くの場合、喜びの前には涙があります。いつも喜ぶと言っても訳もなく喜ぶのではなく、試練の中にも消えない喜びを喜ぶのです。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。ペテロT4:12
喜んでいる人はあたりに不快感を与えません。反対にいつも不平、不満ばかりを言っている人は、周りから人を遠ざけます。大げさな喜び方ではなく、静かに喜ぶ人、いつも微笑みを持っている人は周りの環境を変えます。
また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。
コリントU6:8〜10
あなたは悲しんでいるようであっても、喜んでいますか? クリスチャンは悲しんではいけないのではないのです。弱くてはいけないのでもないのです。だましているように見えたり、人に無視されているようであったり、死にそうであったり! 罰せられているようであったりしてもいいんです。それでも、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
喜ぶとき、エデンが回復します。