メッセージ 2001・7 ・29    小 石 泉 牧師

主 の 祈 り

今日はハワイアンサンデーということでハワイアンな説教をと考えましたが、そんなものあるわけないので最もグローバルな説教をしましょう。それは主の祈りです。

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕マタイ6:9〜13


イエス様は「こう祈りなさい」とはっきり命じられました。だからこれは最も正しい祈りです。まず「天にいます」とあります。ここでいう天とはどこのことでしょうか。それは漠然とした上を表す場合もあります。しかし、パウロ先生は自分が第三の天に上げられたと言い、そこが神の居ますところだったということを暗示しています。
オカルトでは沢山の天があると言います。13も20もいくらでも考え出すのです。それはやはりパウロ先生がテモテに言っている言葉が説明します。

果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。Tテモテ1:4

それらは「果てしのない空想話」なのです。私はサタニズムの勉強をしてこの言葉の意味がよく判りました。そしてパウロ先生がやはりこのことを知っていたと思いました。私の推測では、第一の天はおそらく私たちの地球を取り巻く大気圏のことでしょう。そして第二の天は宇宙空間でしょう。第三の天はその外(というより第一も第二もその中に含まれているのですが)にある時間のない無限の空間でしょう。それは霊の世界です。
霊の世界には広がりはあっても時間はありません。それは無限の広がりであり、時間に制約されないのでどんなに遠い距離でも一瞬に行くことが出来ます。時間がないと言うことは何百年かかっても一瞬と同じことです。
さらにイエス様は神様を「私たちの父」と表現されました。神は父です。男性名詞が使われます。英語ではFatherで頭文字が大文字ですからそのままで神を表します。聖書の神は女神ではありません。しかし、カトリックは女神信仰を取り入れてマリヤを神としてあがめています。これは間違いです。世界には女神信仰がたくさんあります。女神信仰は人間のセンチメンタルな感情を満足させるのです。最近では神を父と呼ぶのは女性蔑視だから、「私たちの父であり母である神」とすべきだと言う聖書が欧米では出版され日本でも翻訳出版されています。これはとんでもない冒涜です。
私たちは父なる神の姿を現す最も具体的な例をあのルカによる福音書の中に見ます。それは放蕩息子の物語です。放蕩に身を持ち崩す息子をじっと待つ父の姿。あれが神が父であると言うことの最もあざやかな絵でしょう。あの父が息子の放蕩のニュースを耳にしても決して探しには行かなかったことを覚えましょう。本人が自覚しなければ、何度、探して連れ戻しても何にもなりません。神から離れた人間がめちゃくちゃな世界を作ってもじっと耐え忍んで待つのが父なる神です。
小学生の頃のことです。私の家の近くに、道路際に夏みかんの木がある家がありました。私はその前を通るたびに夏みかんがほしくてたまりませんでした。ある時、意を決して夏みかんを盗もうとしました。匍匐前進をして木に近づきひとつ盗りました。しかしその家の人に見つかってしまったのです。その人は自転車で追いかけてきて私はつかまり家まで連れてゆかれて父につき出されました。それから25年ほどたって、帰郷したとき、たまたま父とその家の前を通りました。私はふと「僕はこの家の夏みかんを盗んでつかまったことがあったなあ」と言うと、父が言いました「覚えていたか」。覚えていたかということは父も覚えていたのです。父の心も私と同じようにそのことで痛んでいたのです。それが父というものです。
そしてそれは「私たちの父」です。神を、私の、私たちの父と呼ぶのは大いなる特権であり、神が最も喜ばれることでもあります。世界中が神はいないと言っても、私には神がいます。たとえ世界の軍隊が全部押し寄せてきても、私たちの神は私たちの神です。その方は私たちの父です。どんなものもそれを取り去ることはできません。
「御名があがめられますように」。世界で最もこの言葉が必要な場所はどこだと思いますか? 私は国連だと思います。しかし、国連には礼拝堂はあってもそこではほとんどこの御言葉は読まれません。国連は聖書の神とは無関係の組織です。また日本のどこでも御名はあがめられていません。今この時間に日本のありとあらゆる場所で人々は夏のレジャーを楽しんでいるでしょうが、御名をあがめているのはわずかに0.7%の人々です。そう考えてみると私たちはどんなに神様の喜びと関心の対象でしょうか。
私は長い間導いた人々、週報を送り、地区集会においでになった方々が一向に神の御名をあがめないのを見るとがっかりしてしまいます。そして、悪いとは重々わかっているのですが不快感を表したくなるのです。それでも、にこにこと愛をもって接するべきだということは百も承知ですが、一人ぐらい神をあがめない人々へ不快感を表す変わり者がいても良いのではないかと思うのです。良い子でいても相手が変わらないならいっそのこと悪い子になってやろうかと。駄目ですかね。
「御国が来ますように。御心が天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
これはもちろん本当に主イエスが来られて世界が改まるときに実現する言葉ですが、今私たちの只中に実現する言葉でもあるのです。イエス様はあるときこう言われました。
天の御国は「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17:21
御国は今クリスチャンであるあなたの中にあり、あなたの居る所にあり、あるいはあなたの居るところが御国になるのです。最近、ある姉妹が上司に呼ばれ「職場を明るくしてくれてありがとう」と言われたと控えめな言葉で証しされましたが、それこそ御国が来ているのです。あなたの家が、職場が、学校が御国になりますように。みこころが行われる所となりますように。
「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
この言葉は今の私たちにはあまり必要ありませんが、北朝鮮やフイリッピンなどの国々では今日の現実です。そして日本でも一部には必要となってきています。戦中、戦後に成長した私などこれは深刻な現実でした。私たちはこの御言葉が必要な人々を覚えて現実的な助けをしたいものです。新川先生(中国への宣教師)がいよいよそのような働きが開始されます。私も先生を助けて中国や北朝鮮の孤児や難民のために働きたいと願っています。そして日本のためにも。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
新改訳聖書はどうしてこんなにまだるっこしい表現にしたのでしょうか。前のようにはっきり「私に罪を犯すものを私が許すごとく、私の罪をお許しください」とすればいいのに。14、15節では「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」とはっきり罪となっているのですから全くおかしな話です。
ここは主の祈りのもっとも中心だと言われます。私の罪を許してください。そこまでは祈れても「私も私に罪を犯すものを許しました。」とはなかなか祈れないものです。ここにイエス様の御心があります。マタイの福音書17章にある王様に1万タラント借りのある僕が許されたのに100デナリ貸した相手を許さなかった話を思い出してください。1万タラントは私の計算では数千億円に当たりました。100デナリは100万円    
位です。私たちが神に許されている罪は数千億円にも当たります。私たちが他人を許さないその罪は多くとも100万円に過ぎないというのです。この祈りこそ私たちにいつも必要なのです。
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」
こういう祈りをして良いのでしょうか。私たちは信仰の故に迫害されるとイエス様は言われました。その一方でこのような祈りも許されました。感謝しましょう。大部分の私たちは試みから守られるものです。日ごとの試みからも救われるように。近頃のように日常茶飯に殺人が行われる時代ではますますこの祈りが朝ごとの祈りとなるべきでしょう。
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
この部分は古い写本にはありません。おそらく後世の人が書き加えたものでしょう。そして、ひとつの祈りとして完成させたのでしょう。ある人々は聖書に書き加えるものでよくないと言います。しかし、これは敬虔で自然な心の発露といえます。この程度の加筆は他にもあります。(エレミヤの弟子バルクの例。エレミヤ書36:32)
こうして主イエス様は私たちに祈ることを教えてくださいました。これは祈りの原型と言えます。私たちの祈りはこれに始まりこれに終わるべきです。このような完全な祈りを与えてくださった主に感謝します。