メッセージ 2001・7 ・22 小 石 泉 牧師
見えない方を見ているように
イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。イザヤ45:15
「ハーザー」というキリスト教の雑誌に、フレーソンという伝道者の写真を撮ったら、後ろに火が写っていた、また手を撮ったら炎が写っていった、奥さんの写真を“見る人が見れば”天使が写っているということで写真が載っていました。私は最初に心霊写真を思いました。なんとも情けない思いがしたのですが、私は間違っているのでしょうか。
奇跡を見たい、不思議なことを見たい。結局、人間は神様を肉眼で見たいのだなあと思うのです。しかし、聖書の神は第一に「隠れた神」だと言っています。神は目に見えないお方です。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。ローマ1:20
どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。1テモ1:17
神は目に見えません。恐らく私たちが天国に行っても変わらないと思います。空気は地上に満ちていますが、見えないように、天地を創造された方は、天地より大きいのですから見えなくて当然です。その代わりにイエス様は見えます。
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 コロサイ1:15
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
ヨハネ1:14
イエス様は人となって来られ、人の形のまま天に上げられました。今もそのままだと思います。確かに黙示録を読むとヨハネでさえ卒倒するほどの恐ろしい姿を表されましたが、それは神の栄光のお姿の表現、裁き主としての威厳を現したお姿で、福音書のやさしいお姿も備えておられるだろうと想像しています。
あさましい、あつかましい、あざとい、けばけばしい、どぎついというような言葉は、神とイエス様にふさわしくない言葉ではないでしょうか。その反対にふさわしいのはつつましく、へりくだり、自己犠牲、自分を無にしてなどの言葉でしょう。映画のセットのような、はりぼての奇跡や栄光はとても本当の神にはふさわしくありません。イエス様は多くの病人をいやしましたがほとんどの場合、それを言うなと口止めしています。(例外的に言いなさいといったケースもありますが。)
それどころかイエス様はトマスが主の復活を信じなかったときに、彼に現れて、彼が信じたとき、こう言っておられます。
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。ヨハネ20:29
癒されたから神を信じるのですか。繁栄したから神をあがめるのですか。儲かったから献金するのですか。本当の信仰は、見えない神を信じ、何の表れが無くとも神を神としてあがめることです。期待した奇跡も、祈り続けた癒しも起こらなかったとしても、私の神が私に定めておられることは最善なのだと信じ続ける無言の信頼こそ、神の最も喜ばれる信仰なのです。最近の信仰はその反対で、表れなければ神としてあがめないのかと聞きたくなります。
あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。イザヤ50:10(口語訳)
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」ダニエル3:16〜18
暗い中を歩いて光を得なくても、たとえ神が火の中から自分たちを救い出すことがなくとも、私の神への信頼はゆるぐことがありません。これが成長したクリスチャンのありようです。眼に見える答えがなければ信じないならそれは幼稚な信仰です。
しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。ヨハネ10:38
しかし、これは不信仰な人々へ言った言葉です。すでに神との信頼関係を築いた人へのメッセージではありません。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Uコリント4:18
信仰とは見えるものではなく見えないものを見る行為です。そんな詭弁だといわれますか、見えるものを信じる必要はありません。見えないものを見てこそ信仰なのです。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。ヘブル11:1(口語訳)
望んでいる事柄がいつ実現するか判らないのです。いつまでもいつまでも、もしかしたらこの世では実現しないかもしれないのです。それでも信じ続けるのです。
信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。11:27
モーセでさえ目に見えない方を見ているようにして忍び通したのです。
私たちは祈りが答えられたという証は喜んで聞きますが、何の答えもなく、それでも信じ続けたというような証は聞きたくないものです。しかし、実はその方がずっと多いはずです。北朝鮮のクリスチャンの証の中で着の身着のままで監獄に入れられた姉妹が、洗面用具もなくて祈ったところ、獄舎で法律の試験があり、その姉妹が前夜勉強したところが全て出て満点を取り、30人分の日用品を与えられたという話がありました。それもすばらしい証です。しかし、何も与えられず何も答えられずただキリストの証のゆえに死んでいった人々は無数に居ます。
遠藤周作の「沈黙」は日本のキリシタン迫害のとき、自分の教えた信徒が次々と処刑されてゆくのを見た宣教師が、「神よ、なぜ沈黙されているのですか」と訴えながら転んでゆく(棄教した)有様が書かれていました。ところがある地方の女子大生が、この本に異議を唱えて新聞に投書したのです。それは神を信じるがゆえに自分の命を惜しまないで捨ててゆく人が居るということは神の存在の証であって、神は沈黙していないというのでした。私はこの女子大生の方が信仰がわかっていると思いました。
神の臨在、奇跡が見えることは確かにすばらしいことです。しかし、神が見えないのに、見ているようにして生きることはもっとすばらしい信仰です。前者は受身的な信仰であり、後者は能動的な信仰です。
わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。ローマ12:3
というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。Uテモテ1:7
神を与えられた恵みに感謝しつつ、つつましく生きることがキリストに生きるものの真の姿なのです。わざとらしい神の表れなどを追い求めるべきではありません。