メッセージ 2001・ 7・ 15   小 石 泉 牧師

神の愛を知っていますか

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。Tヨハネ4:7〜11

なんという美しい御言葉でしょうか。この世にこれに匹敵する言葉があるでしょうか。私たちはここから「神は愛である」という絶大な真理を知りました。この宇宙を創造された方は「愛」なのです。これがもし、憎しみや、気まぐれだったらどうでしょうか。進化論とは気まぐれと言うに等しい意見です。
スティーブン・スピルバーグ監督の「AI」という映画を見てきました。ロボットが人間を愛するという馬鹿げた内容で、見終わっていやな感じが残るものでした。精神分裂症の人が考えたストーリーのようでした。子供に見せるべきではありません。後で聞いた話では、この映画はもともとスタンレー・キューブリックという人の作るはずだったものを、彼が死んだのでスピルバーグが作ったのだそうですが、彼らは全てのものが進化するという思想に立っていますから、ロボットも進化して愛を知るようになると言いたいのでしょう。愛とは人間の持つ感情のうちでもっとも高貴なものです。進化と愛とはもっとも遠い関係です。スタンレー・キューブリックは前の「2001年宇宙の旅」という映画で有名になりましたが、あれは無神論の宣伝のような映画で、結局、輪廻転生を唄っていました。彼らにはこのような御言葉は理解できないのでしょう。あるいは反発しているのかもしれません。
さて、神は愛であるというとき、私たちはどういう愛を考えるでしょうか。静かな、やさしい、穏やかな、ものではないでしょうか。ところがそれが大分違うのです。

あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。出エジプト34:14

神は御自分をねたむ神と呼んでいます。これは不思議な言葉です。本来、妬みとは利己的で否定的な言葉だからです。しかし、あえてこういう言葉を使ったのは御自分の愛の深さを表現したかったのでしょう。

あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。申命記4:24

焼き尽くす火、ねたむ神。なんと激しい言葉でしょうか。神は人をこれほど愛しているのです。愛することは恥ずかしいことではありませんから、神はそう表現されてためらいません。

主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。ヨエル2:18

私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。』」ゼカリヤ1:14


万軍の主はこう仰せられる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。」8:2
激しく愛した。憤りでねたむ。これらはイスラエルに対する神の愛の深さを表しているのですが、今日のクリスチャンにそのまま置き換えて良いのです。

それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。ヤコブ4:5

この箇所は昔から解釈が難しいところとして知られていますが、文字通り受け取れば、神は私たちに住まわせた聖霊をねたむほどに私たちを愛しているとも取れるのです。

私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。雅歌8:6

何と激しい愛の姿でしょうか。私たちは神の愛を少し誤解していたようです。それは取り澄ました、やわらかなものではなく、激しく情熱的で、死のように強く、よみのように激しく、火の炎であり、それもすさまじい炎!なのです。驚きましたか? しかし、神はその愛を決して無理強いしません。

エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。雅歌8:4(口語訳)

エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。8:4(新改訳)


愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。何とやさしい言葉でしょうか。これは人間同士の愛にも当てはまる、愛の原則です。愛は完全な自由の中にしか生まれません。ほんのちょっとの強制も、脅しもあってはならないのです。これはまた宗教の原則でもあります。信仰もまた決して強制されたり、脅されたり、マインドコントロールされてもならないのです。
 キリスト教がほかの宗教に比べて日本では効率が悪いのも一面はこの原則があるからと言えるでしょう。それでも神様は愛の原則を守るのです。そして神に愛された人は神の喜びの姿を知るでしょう。

愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。雅歌2:8〜12

この箇所を神の愛とするには勇気がいりますが、雅歌を考えるとそういうことになるのです。詳しいことは私の雅歌の解説書を読んでください。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。ヨハネ13:34〜35


前の雅歌の歌とこの御言葉が何かつながっているように思います。愛し合いなさい、それがこの宗教の戒めです。この愛はギリシャ語のアガペーです。この言葉を愛とするとあまり本意を伝えていないように思います。もっと判りやすく言えば尊敬し合いなさいです。アガペーの日本語訳は難しいですが、尊敬、自分を犠牲にする献身、分かち合う心などいろいろ考えられます。

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。13:1

イエス様は十字架にかかられる前に、弟子たちに「その愛を残ることなく示された」のです。昔の聖書では「極みまでこれを愛されたもう」とあります。もう一度、最初の御言葉を読んで見ましょう。

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。Tヨハネ4:7〜11

神は愛です。それも激しい愛をお持ちでした。そして、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
愛する者のために自分の命まで投げ出す愛をもって私たちを愛してくださった神とキリスト。今も神様は私たちを愛してくださっています。もっと自信を持ちましょう。大丈夫、あなたはねたむほど愛されているのです。