メッセージ 2001・7 ・1   小 石 泉 牧師

初代教会紳士録

 今日は珍しいところからお話しましょう。ローマ書はキリスト教の背骨とも言うべき書簡です。この書において初めてキリスト教はユダヤ教から独立したのです。それは深遠な真理の書です。しかし、今日はその中でもほとんど読み飛ばしてしまうような、最後の挨拶の中から学びましょう。ローマ書16章です。

ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。16:1

フィベは執事だったとパウロ先生は言っています。当時から教会には女性の執事が居たようです。彼女たちは今と同じように、教会でのさまざまな仕事をしていたのでしょう。特に若い女性信者の指導や洗礼の補助、旅人の接待などをしたようです。このフィベはかなり裕福な家の人だったようです。それというのも「多くの人を助け」「私自身も助けてくれた」という言葉は経済的な援助を意味していると思われるからです。
彼女はパウロのこの手紙を持ってローマに旅立とうとしていました。女性が一人で遠くへ旅行するということは何らかの事業をしていたと考えられ、それも夫を亡くして彼女自身が事業をしていたと考えられるのです。パウロは「聖徒にふさわしいしかたで」彼女を歓迎してほしいと言っています。そのことからも彼女が立派な信仰者で、豊かな階層にもかかわらず従順な信仰の持ち主として、パウロの尊敬を受けるにふさわしい人物だったと考えられるのです。このような立派な信仰者の婦人はいるものです。

キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。16:2〜5

プリスカまたはプリスキラとアクラは夫婦です。この二人は使徒行伝やコリント書にも出てくる良く知られた信徒でした。彼らは使徒ではなかったのですが、使徒に勝るとも劣らない働きをしました。面白いことに普通、男性を先に呼ぶのに、彼らの場合は妻のプリスキラのほうが先に呼ばれることが多いのです。アクラの職業は天幕造りだったと書かれていますので、もしかするとプリスキラが伝道者として活躍し、アクラがそれを支えていたのかもしれません。今でもそういう夫婦が居ますね。ソル先生達のように。

あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。16:6

このマリヤが誰なのかはこれだけでは判りません。イエスの母、マグダラのマリヤ、マリヤという名は聖書に沢山出てきます。しかし、このマリヤの紹介は「非常に労苦した」です。それで十分です。何という名誉な称号でしょうか。人のために労苦した、それも“非常に労苦した”人としてこのマリヤは聖書に永遠に名を記されました。最近の信仰の流行は「こんなに恵まれた」「癒された」「金銭が与えられえた」と言うものばかりです。誰も人のために非常に労苦することなど求めません。そしてそういう人は人知れず信仰の道を歩んでいるのです。
エパネトはアジア(小アジア、今のトルコ)の初穂とされています。最初の実というのは忘れがたいものです。

私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。16:7

彼らもまた、使徒に匹敵する有力な弟子でしたが、あまり人に知られることなく、ただパウロとともに投獄されるという名誉に預かりました。パウロは先輩として十分な敬意を払っています。

主にあって私の愛するアムプリアトによろしく。キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと、私の愛するスタキスとによろしく。16:8〜9

私の愛する。パウロがそう言ったのは奴隷の身分の人でした。ウルバノもスタキスも同じです。パウロはローマ市民権を持つ裕福な階級の出身者です。その彼が「私の愛する」というとき、慈しみにあふれたパウロの視線を感じます。

キリストにあって練達したアペレによろしく。アリストブロの家の人たちによろしく。16:10

練達した。パウロ先生に本物のクリスチャンとして認められたアペレとはどんな人だったのでしょうか。会ってみたいですね。アリストブロの家の人というのも奴隷をあらわす言葉だということです。

私の同国人ヘロデオンによろしく。ナルキソの家の主にある人たちによろしく。16:11

ヘロデオンとはヘロデの建てた要塞に同じ名がありますのでヘロデの関係者かもしれません。ただ同国人と言うのを厳密に言えばヘロデはエドム人ですからおかしいともいえます。ナルキソの家の人も上と同じです。ナルキソはネロの迫害のときに殉教した人としても知られています。

主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した、愛するペルシスによろしく。16:12

ツルパナとツルポサは双子の姉妹だったと考えられています。だからどうってことはないのですが、当時の教会で奉仕する双子の姉妹を想像するとなんだかほほえましくなりませんか。ペルシスも奴隷または解放された奴隷でした。パウロが愛するという言葉を使うときの心遣いがわかります。

主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。16:13

 「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある。」(口語訳)


 クリスチャンはみんな選ばれています。ルポスはその中でも特別に選ばれているのです。何か大きな働きの器なのでしょう。その信仰は母とともに成長しました。まだ二代目というわけではないが、彼の母はもともと敬虔な方だったのでしょう。パウロが私の母でもあると言ったのは本当の肉親という意味ではなく尊敬を表しているのです。パウロ先生にそういわれる方に会ってみたいようです。

アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよびその人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく。フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たちによろしく。16:14〜15

これらの名前も多くは奴隷だということです。

あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。16:16〜18

何とこんなにも早く贋の兄弟たち、偽りの弟子たちが入り込んで来ていたのです。驚きですね。そのような状況が今は無くなっているわけではありません。

あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています。また私の同国人ルキオとヤソンとソシパテロがよろしくと言っています。16:19〜21

この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。6:22


ここで突然、パウロの筆記者が名乗り出るのも面白いですね。

私と全教会との家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の収入役であるエラストと兄弟クワルトもよろしくと言っています。16:23

ガイオという人はよほど裕福だったのでしょう。パウロと全教会!の家主ですって。また、市の収入役というのは日本で言えば市の経理部長と言ったところの高位の人でしょう。奴隷から高官まで本当に幅広い人材が“民主的”に集まっていたのでしょう。

私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。16:25〜27

親しみに満ちた人々への挨拶の後にパウロ先生らしい厳かな御言葉が現れます。ここで驚くのは、「私の福音とイエス・キリストの宣教によって」という言葉です。これは一般的に考えれば反対です。イエス・キリストの福音と、私の宣教というべきでしょう。  
しかし、パウロはイエス様の福音を初めて正確に理解した人です。その確信は多くの反対にもかかわらず「私の福音」というほど強固なものとなっていました。そしてその宣教の業は自分ではなくイエス・キリスト、すなわち聖霊によるのだと言っているのです。
さて、この使徒行伝の続きのような初代教会の紳士淑女録に出てくる人々は本当にイエス様の御言葉を実践した人々です。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。マルコ8:34〜35