メッセージ 2001・6・24 小 石 泉 牧師
あまりにも単純な話
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。創世記15:1〜6
これはアブラム、後のアブラハムが80歳ぐらいのときの話です。ここで神様は明確にアブラハムに子を与えると約束されました。アブラハムは当時の男としては大変、変わった人間だったと思われます。というのは80歳になるまで子がいなかったからです。これは当時の男としては非常に情けないことでした。そのために幾人もの妻を持ち、子をなすのが常識だったのです。しかし、アブラハムには妻のサラだけしかいなかったようです。この後にサラは思い余って自分の奴隷だったハガルを与えてイシマエルを設けさせますが、それが86歳でした。しかし、これは神様の約束とは違いました。
それからさらに13年の月日が流れました。最初の約束から20年もたって、もう一度、神様はアブラハムに子を与えると言われたのです。
ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」(中略)また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。16:16〜17:22
アブラムとは「尊い父」、アブラハムとは「多くの人の父」という意味です。アブラハムが改名したとき近所の人々は驚いたでしょうね。皮肉、嘲笑、中にはアブラハムは気が変になったのではないかと本気で心配した友人もあったかもしれません。それにしても神様とおつき合いするのも大変です。約束から20年、もう、アブラハムもサラも子供を産めない体になっていました。私も60歳になってそのことがよく判ります。どんな信仰の人でも、もうあきらめたことでしょう。あれは何かの間違いだったのだ。幻は単なる幻想に過ぎなかったのだ。だからアブラハムは笑いました。静かに。敬謙に。神様はその笑いを取り上げてイサク「笑い」と名づけなさいと命じました。そして、何と100歳にしてアブラハムは子を設けました。この後、アブラハムはサラの死後、別の妻から6人の子を設けていますから、彼の体は100歳にして子を産む力を回復したのです。ところで私たちはこの一見奇妙で愉快で単純な物語が、実はその後、人類の救済という途方もない計画に関わるという奇想天外な物語の展開を見ることになるのです。
かなり長い引用ですが大切なところなので読んでください。
それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。ローマ4:15:1
判りますか? パウロ先生はここでユダヤ人が烈火のように怒る理論を述べています。それはアブラハムが正しいとされたのは、律法を行ったり、割礼(ユダヤ人が赤ちゃんの時にする男性の性器の皮を切り取る儀式)を受けてからではなく、ただ信仰によったのだからユダヤ人でなくともアブラハムと同じ信仰に立てば救われるのだと言っているのです。このためにパウロはユダヤ人に最も憎まれる人であり、ローマ書は最も嫌われる書物なのです。そして何とアブラハムは人類の救いの父となりました。彼は信仰により義とされたので、その足跡に従うものはみな義と認められるのです。
それにしても、何と奇妙な話でしょうか。もともとは子供を産めなくなった年寄りが、子供を与えると言われたことを信じたというだけの話なのです! それが人類の救いの原型だというのです! 罪の許し、永遠の命、天国の国籍、神の国の民。そんな途方もない話が、「お前に子を与えよう」「はい、信じます」というだけの恐ろしく単純な会話の結果引き起こされるというのです。
信仰とは単純なものなのです。キリスト教から世界のどれほど多くの図書館の大きなスペースを埋めるほど書物が書かれ、幾多の知識人が語り、難しい議論が戦わされたとしても。数え切れない神学校や修道院で学問が日々、積まれたとしても、結局はその結論は単純です。「信じますか」「はい」だけです。
キリスト教は答えの判った推理小説のようなものです。もうすでに問題は解決されているのです。答えは出ているのです。それは子供でもわかるほど単純明快です。だから日本人はキリスト教が判らないのです。日本の宗教は道を探すことが中心です。答えが判ってしまってはいけないのです。しかし、神の救いはもう与えられました。それを受け取るのは単純な一言だけなのです。アブラハムが言ったように。「神よ、あなたを信じます。」
それだけです。