メッセージ 2001・ 6 ・17   小 石 泉 牧師

美しい神、美しい世界

 先日、ハワイに行って来ました。もう3回目ぐらいなので感動もないと思っていましたが、何度行っても、あの美しさには感動します。今回はレンタカーを借りて、オアフ島をほぼ一周したので格別でした。とりわけサーフィンで有名なノースショアに行ったときには海の青、砂浜の白、やしの木の緑のコントラストに息をのみました。世界はなんて美しいのだろう。海ってこんなにきれいなものだったのかと。

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。箴言8:22〜31

ここは世界の創造の時に、神の御子がどういう立場におられたかを明確に物語る珍しいところです。御子は神の傍らにおられて実際的な指揮をとり、いわば現場監督のように(失礼)働いておられたのです。「神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき」とあるのは、宇宙から地球を見た時の様子をあざやかに表しています。21世紀の私たちは衛星からの写真でそれを知っているのです。
私はハワイの宿舎でこの御言葉を読んだとき「わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」という言葉に目が止まりました。今まで気がつかなかった言葉でした。「この世界で楽しみ」。イエス様は創造のときこの世界におられたのだ! 恐らくこのノースショアにも来られたに違いない。この美しい景色を、楽しまれたに違いない。そして「人の子らを喜」ばれたのです。
澄みきった水は海底の深まりにつれて青さを増し、沖合いで群青色になります。誰がこのような美しさを計画されたのだろうか。神は何という芸術家だろうか。このような美しさを作り出す神は、御自身が途方もなく美しい方に違いない。この世界は、本当はとても美しかったに違いない。しかし、人はその美しい地球を汚してしまったのです

わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じてその上に雨を降らさない。万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。イザヤ5:1〜7(口語訳)

神はこの世界を美しい物で満たし、そこに人を、喜びをもって生まれさせました。それは良いぶどうでした、神は良いぶどうを植え、良いぶどうの実のなるのを期待しました、ところが実ったぶどうはすっぱくて食べられない野ぶどうだったのです。
神は訴えます、私に何か落ち度があったのか、何かなすべきことがあったのか。どうして人は互いに憎み合い、戦争をし、意味もなく殺人を繰り返すのか。それは神様の御計画とはかけ離れたものだったのです。
しかし、何度もお話するように、それは人間に与えた完全な自由の代償でした。愛の神は完全な自由の内にだけ成り立つ愛を人間に期待したのです。それは危険な賭けであり、残酷な事実でしたが、自由の中にだけ成り立つ愛のために神は人間に自分に等しい自由を与えたのです。そして、人間は神を否定する自由を得ました。その結果このような世界になりました。
そのような人間を神は回復するために、再び御子を世界に使わされました。

それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで息を引き取られた。マタイ27:27〜50

神の御子が再びこの地球にやって来たとき、今度は「楽しみ、喜ぶ」ためではなく、「苦しみ悩み、死ぬ」ために来られたのです。美しい神は、みにくい十字架の上で命を捨てられました。それは人をもう一度創造の時の美しさに帰らせるためにです。だからクリスチャンよ、あなたは美しいのです。あなたは清められ、「高価で尊い」と呼ばれるまでに回復されたのです。美しい神の御子の清らかな血によって。  ああ、なんと美しい宗教でしょうか。
それにしても、ノースショアで考えました、神の御子はゴルゴタをどんな思いで造られたのだろう。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。伝道の書3:11

神のなさることはすべて時にかなって美しい。そうです、今は判らなくても、神の御計画は誤りなく成されています。それらは完全な美の結末を与えるでしょう。神は美しく、世界は美しく、神の御子によって贖われたクリスチャンは美しいのです。感謝しましょう。あなたの人生を神にゆだねなさい。神は最善を成してくださるでしょう。



関係ない話
 ハワイからの帰途、飛行機の上でこんなことを考えました。今まで私はコンピューターのソフトと言う物がどうも判りませんでした。テレビでも冷蔵庫でも何でも買ってくれば使えるのに、コンピューターはウインドーズとかマックとかいうソフトを入れないと使えません。これは聖霊に似ているなと思いました。人間は聖霊がないと神とキリストがわかりません。聖霊によって私たちは神とキリストを知るのです。それでいて聖霊は御自分を表すことはありません。コンピューターのソフトもそれがなければ全く何も出来ないのにソフト自体が表に出てくることはありません。だから聖霊を対象にいろいろいうことは間違っています。私たちは神とキリストが判るとき聖霊が働いて居られるのだと知るのです。