メッセージ 2001・5・20   小 石 泉 牧師

奇   跡

今日は奇跡について学びましょう。私たちの教会は多くの奇跡を経験してきました。そして、聖書には神のなさった多くの奇跡が書かれています。19世紀から、福音書に書かれている奇跡を疑う人々が起こりました。彼らは福音書から奇跡を取り除こうとしたのです。しかし、そんなことをすると福音書はほとんど意味をなさなくなります。
私はいつも言うのですが、神にとって奇跡を行うより、行わないほうがずっと難しいのです。イエス様は人となられたとき御自分の神として御力を極限まで制限されました。
それは、もし神の御子がそのまま人の世に現れたら、人間はおろか宇宙さえその力に耐えられなかったからです。太陽を創造された方は太陽より輝いています。もし御子が神としてのそのままの栄光で現れたら、我々の目も全身も耐えられなかったでしょう。
発電所で発電された電気が私たちの家庭に届くためには、多くの変電所を通って、最後に電柱の上の変圧器を通って電圧を下げ続けて来ます。同じように神の御子は御自分のお力を下げ続けて私たちに近づかれたのです。そして、私たちに喜びを与えるために御自身のお力を下さると約束されました。

 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。ヨハネ15:7

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。ヨハネ16:2324

「何でも欲しいものを求めなさい」「何でも与えます」「求めなさい、そうすれば受け取ります」大金持ちの親戚の叔父さんがいてこんなことを言ってくれたらどんなに嬉しいでしょう。白紙の小切手にサインだけして好きな金額を書きこみなさいと言っているようです。こんな約束をいただいているのに、実際にはクリスチャンはそのような経験をあまりしません。それはなぜでしょうか。

イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」11:40

「もし信じるなら」。イエス様はラザロが死んだときマルタにこう言われました。信じるとはどうすることでしょう。一言で言えば「そのために死ねる」と言うことです。そのような信仰に神は答えられるのです。中途半端で、あいまいで、どっち付かずの信仰では答える方が危険です。イエス様はこのような弱い信仰をしかっています。

イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もしからし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。マタイ17:17〜20

これはイエス様が変貌の山でモーセとエリヤに出会い、御衣が真っ白に変わり、神の声が聞こえた後に、山から下った時の話です。神としての栄光を垣間見せた、高揚した御心の直後に聞いたのは、弟子たちがてんかんの子供を癒すことが出来なかったという報告でした。これに対して珍しくも「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」と弟子たちにいらだちを表したのです。ここはそうとしか思えない個所です。また、こんなこともありました。
イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」マルコ4:39〜40
これは、海上で嵐に遭ったときそれを静められたのですが、その時、弟子たちに言われた言葉です。「信仰がないのはどうしたことです」とは、原語では「あなた方でやれなかったのですか」と言う意味を含んでいると言うことです。
またペテロとのこんなやりとりもありました。やはり嵐の海でイエス様が海の上を歩いて弟子たちの乗っている船に近づかれた時、

するとペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこでイエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」ルカ14:28〜31

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そんなこと言ったって…。
イエス様の要求される信仰を持つことは難しいことです。しかし、覚えましょう、ペテロさんは弱い信仰をしかられましたが、他の11人の弟子たちは一歩でも二歩でも海の上を歩くと言う経験はしなかったのです。奇跡は信仰から生まれます。そしてそれは動き出さなければ起こりません。
私は沢山の奇跡を体験してきました。無一文から始めて、このような会堂も与えられました。しかし、座って何かが起こるのを待っていたのではありません。自分の出来るだけの事はしました。人間の出来ることをしないで、ただ奇跡を待つのは怠慢に過ぎません。またクリスチャンは時々、狂信的になり、非常識になります。
アメリカのある村は全米一、子供の死亡率が高いそうです。その村はクリスチャンの村で、医者に頼らないことを誇りにしています。その結果、医者にかかれば直る病気で子供たちが死んで行くのです。医者にかからないことを誇りにするのは間違いです。たしかに聖書にはそう言う言葉がありますが、当時の医者は占い師に近いものでした。医学は神が人類に与えた祝福です。自然の中にも薬草や治療の薬が存在するのです。人事を尽くして天命を待つ。というのは正しいことです。とことん人間のすべき努力をして、もうどうしようもない、これ以上は不可能だと言う時が神の働かれる時です。
奇跡は不可能から始まります。可能なことを可能にするなら信仰なんて要りません。不可能を可能にすることが信仰なのです。私は多くのクリスチャンが可能なことだけを求めて、そこに安住しているのが不思議でなりません。それなら信仰なんて要らないのです。ペテロのように荒れた海に足を踏み出す人がいません。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。ヨハネ14:12 (口語訳)


 イエス様は私たちが、御自分のやったことよりもっと大きな業をすることが出来ると言っておられます。ただ、奇跡を悪い動機で求めるから起こらないのです。
 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。ヤコブ4:3
 奇跡を自分の功名心や、人々を驚かして自分を大きなものに見せようとすることが往々にしてあるのです。さらに奇跡を起こす人は高慢になります。自分が神の特別な器だと思いこみます。純粋な愛からではなく、自分の利益のために用いることになると、それは偶像礼拝や魔術と変わりません。最近はそれに加えて、神の栄光のためでなく、サタンから来る惑わしのための奇跡も沢山起こっています。

また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。マタイ24:11

にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。24:24

 今後、おそらくもっともっと不思議なことを起こす人々が現れるでしょう。しかし、こう言う人々は良く観察すると、どこかおかしいのです。ただ奇跡や不思議だけを求めて右往左往していると全くだまされてしまいます。奇跡は本当に必要なとき、愛と感謝の内に現れます。それは本当の信仰、そのために命を賭けても良いという心に現れるのです。そして最も大きな奇跡は私たちが救われて神の子になるということです。

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。マタイ16:24〜25