メッセージ 2001・ 5 ・13 小 石 泉 牧師
私たちの希望・キリストの再臨
世界は恐ろしい勢いで破滅に向かっています。世の人々は何とかしてそれを止めようとするのですが成功しません。今、人々は希望を持っていません。一体どこに希望を見つけられるでしょう。次々と起こる凶悪な事件に、絶望しきった魂を見るのです。
しかし、私たちには希望があります。それはあのイエス・キリストがもう一度帰ってこられるからです。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。ヨハネ14:1〜3
イエス様は天に帰って行かれるとき「私はもう一度帰って来る」と約束されました。これはキリスト教の非常に大きな特徴です。キリスト教とはまだ完結していない宗教なのです。イエス様の言葉はあまりにも簡単で、まるで隣の町にでも行って来るように聞こえますがこれはとほうもなく大きな出来事なのです。そして何ともうその約束から2000年も経ってしまいました。
まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」Uペテロ3:3〜4
世の終わりになると「あざける者ども」が出てくるとペテロは言っています。今、日本にいるとあまりそう言うことは耳にしませんが欧米ではキリスト教に対するあざけりが非常に盛んです。しかし、必ずイエス様は来られます。
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。5〜9
何と長い忍耐、何と深い愛でしょうか。私たちは時々、あんな人間をどうして神様は長生きさせておられるのだろうかと思います。しかし、神の御心は「ひとりでも滅びることを望まない」のです。そして「一日は千年のごとく、千年は一日のようです」とあります。
世界は七日間で造られました。聖書によればアダムからキリストまでは4000年、キリストが再び来られて(再臨という)から千年王国というのがあると言われていますから、足すと5000年。キリストから再臨までが2000年とするとちょうど7000年でぴったり合うのです。でも西暦2000年に再臨されなかったではないですかと思われるでしょう。神様の時間と人間の時間は違うのかもしれません。また私が主張するように、西暦はキリストの誕生ではなく、メシヤとしての戴冠式であった洗礼を受けた時と考えるならそれは西暦26年です。これはダニエル書の預言ともぴったりと一致します。ですから2026年が本当の西暦2000年です。それで、もしかすると2026年に再臨されるかもしれません。
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。13
ここに書かれていることはどうも再臨の時ではなく、千年王国の後の新天新地と考えられます。それにしても恐るべき規模と大きな破壊です。しかし、その中でも私たちは守られています。それにしても一体、その時は何時なのでしょうか。そのことについてはイエス様も知らないと言っておられます。しかし、弟子たちがその時の前兆について聞いたときイエス様はかなり詳しく教えておられます。
イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」マタイ24:1 〜3
ですからその時のことを御言葉に従って推測することは間違っていることではありませんし、今こそ、その事を真剣に考えるべき時でしょう。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。4〜14
イエス様はその時には惑わしが起こると言われました。私は今、ものすごい惑わしがキリスト教会を覆っていると思っています。しかし、ほとんどの教会ではそうは思っていません。これは非常に危険なことです。また戦争、ききん、地震が起こるとありますが二〇世紀は戦争の世紀だったと学者は言っています。21世紀ももっと起こるでしょう。しかし、その中でも福音、キリストの救いは全世界に述べ伝えられるのです。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。30〜33
人の子とはイエス様が御自分を指して言われた言葉です。そのしるしとは十字架以外に考えられません。いつの日か大きな十字架が天に現れるのでしょうか。そして今は、人の子がすでに戸口まで近づいている時代です。その時、私たちは選びの民として集められます。
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。37〜39
この世の人々はノアの時のようにそんな恐ろしいことが起こるとはつゆ知らずにおもしろおかしく過ごしています。それでいて本当の希望は持っていないのです。しかし、私たちには希望があります。それは世の人々が想像もできないこと、あのイエスキリストが再び来られるということです。キリストが最初に来られた時、ほんの少しの人しか、それが神の御子キリストだとは気がつきませんでした。旧約聖書は注意深い人ならそれがわかるように詳しく預言したのです。しかし、今度来られる時はどんな不注意な人でも見落とすことはありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。Tテサロニケ4:16
このような希望を持っているのですから、私たちはひとりでも多くの人々に福音を伝えなければなりません。そして、キリストの内に留まっていなければなりません。
そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに御前で恥じ入るということのないためです。Tヨハネ2:28