メッセージ 2001・ 5・6 小 石 泉 牧師
詩篇84篇 神を愛し、神に愛されたダビデ
指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。コラの子たちの賛歌
詩篇84篇はその他何篇かの詩篇と共に「コラの子の歌」と書かれています。コラという名は聖書では大変いまわしい名前です。モーセに逆らい、生きながらに地獄に行った人の名だからです。偉大な聖書の教師マシュー・ヘンリーは、この詩篇はダビデのものだろうと言っています。内容、使っている言葉、他の詩篇とのつながりがいかにもダビデのものだというのです。もしそうだとしたらダビデは、自分はコラの子のような罪人だとへりくだったのかもしれません。とにかく、この美しい詩を読んでみましょう。
万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。
万軍とは天使の軍団で、他にも神の御側近く仕えるケルビム、セラピムなどの不思議な神々しい存在を指します。いつの日か私たちこれらの者たちの恐るべき栄光の光景を見ることでしょう。お住まいと訳されている言葉を英語ではTabernacles天幕、幕屋と訳しています。しかも複数形です。ダビデは神の神殿である天幕の庭を言っているのだと説明されますが、この詩篇全体を読むとこれが地上の物質的な天幕ではなく天の幕屋、そして実は祈りを表していることが判ります。それは「なんと慕わしいことでしょう」。この慕わしいという言葉も、英語ではamiable、愛想が良い、好意的であるとか、lovely、美しい、愛らしいという言葉が使われています。祈りに安らぎと喜びを感じている人の表現でしょう。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
ダビデは魂と、心と、体全体で主との交わり、祈りを慕っていると告白しています。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」申命記6:5
とある通りです。
雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。
ダビデは幕屋の祭壇に巣を作った(のでしょう)つばめをうらやましいと思ったのです。この場合、雀、つばめを現在のものと同じと考えなくても小鳥全般と考えて下さい。
ダビデは幕屋でレビ人による数千人の聖歌隊を何組かに分けて24時間賛美を歌わせました。また沢山の楽器を用いました。面白いことに、この他にダビデは籠に入れた小鳥を一緒に歌わせたのです。第三の音とも言うべき不思議な発想です。小鳥たちは人間の声と楽器に合わせて美しいハーモニーを奏でたということです。アッシジのフランシスが説教する間、そばの木の上で小鳥が美しくさえずりつづけていたと言います。小鳥の歌は間違いなく神への賛美ですからすばらしいものだったのでしょう。
なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ
ダビデは自分の王宮よりもどこよりも神の宮に住むことを願いました。セラというのは音楽的な区切りを表すとも、楽器の演奏だけになる間奏部とも言われていますが正確なことは判っていません。原意は「上げる」という意味です。
なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
己の力に頼まず、神を力と頼む。そのような人こそ本当に強い人です。そして、いつも心の中にシオンへの大路、神への乾き、祈り、あこがれのある人こそ幸いな人です。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
涙の谷。私たちは何度も涙の谷を通ります。しかし、神に生きる人はそこも祝福の場所となります。原語では、涙はバーカーと言いバルサムの木を意味します。バルサムは非常に乾燥した所に生え育ち、涙のように見える樹脂で幹を被います。乾燥して、喉の乾く地帯を行く時にも泉はわきだすというのです。初めの雨とは秋の雨のことで、種を蒔く時の雨です。(イスラエルでは秋の雨で麦の種を蒔き、後の雨と言われる春の雨の後に刈り入れます。これは日本とほぼ同じです。)夏のひでりの後に降る雨が種まきの準備をさせます。「涙を持って種蒔くものは、喜びをもって刈り取る。」という御言葉も思い出します。
彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ
神に忠実な人々は力から力に進みます。圧倒的な勝利者となると約束されています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」ローマ8:37
そして神の都シオンで、神の御前に現れます。神が現れたもうのではありません。私たちが神の前に現れるのです。
「私の愛する方は、私に語りかけて言われます。『わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。』」雅歌2:10
隠れていないで神の前に出てください。神様は待っています。
神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。
盾は日本の武士の装備の中では低く評価されていました。日本人は盾をいさぎよしとはしなかったようです。しかし、古来、西の国々では盾は非常に重要視されました。ローマ軍の兵士たちは木の盾に皮を張り、戦争の時にはそれに水をかけて敵の火の矢を防ぎました。
「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」エペソ6:16
ヨーロッパの紋章にも盾が良く使われています。私たちの盾は主イエス御自身です。そして信仰です。
まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。
説明の必要のない個所でしょう。ダビデはどんな場所よりも神の家、その大庭、祈りの部屋を愛しました。そしてその門番になりたいと言うのです。王が自分の王宮に住むよりも神の宮の門番になりたいというとはなんと謙虚で信仰の深い言葉でしょうか。
まことに神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。
実にダビデほど神の御心を求め、慕い続けた人もまれです。だからこそ彼はダビデ、「愛された人」(ヤングのコンコーダンス)と呼ばれたのです。神に特別に愛される秘訣は、神を特別に愛することです。
この詩篇は63篇のダビデの詩篇と良く似た表現があります。その点からもコラの子というのはダビデ自身だろうと思われます。
「ダビデの賛歌。彼がユダの荒野にいたときに
神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。
それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。」63:1〜5
その他以下の個所も参考にしてください。
「わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。」Uサムエル22:3
「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」詩篇18:2
神を生きている友人のように慕い求め続けたダビデ。だからこそ神の寵児と呼ばれました。あなたもダビデのように、神を自分の神として慕い求めてください。あなたも神の寵児となるのです。