メッセージ 2001・4 ・ 29    小 石 泉 牧師

神との契約の民となること

 今日は献金について学びましょう。献金はあまり説教としては取り上げられないテーマです。しかし、これは、はっきり理解して置くべきことです。

さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」ルカ21:14

イエス様は献金に関心を持たれていました。そしてその見方は一般の人と違いました。イエス様は献金を額ではなく率で考えていました。金持ちが何万円捧げても、それは彼らの財産から考えたら僅かなものでした。しかし、このやもめ(For young:夫を亡くした女性)はその日の生活費の全部を捧げたので、誰よりも多くを捧げたと言われるのです。イエス様はどうしてその女性の財産を知っていたのでしょうか。不思議ですね。  
ところで当然のことですが、この女がいつも、いつも全財産を捧げたわけではありません。たまたまそういうこともあった、ということです。彼女はある日の食費を全て神に捧げました。そしてその心がイエス様には通じていたのです。
さて、なぜ人は神に献金を捧げるのでしょうか。

そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。使徒17:22~25

 献金は神にするものであって人や教会にするものではありません。しかし、神はお金など必要とはしてはいません。献金の目的は捧げる人自身のためです。献金で間違えてならないのは、献金は会費ではないということです。ですから本当は、会計報告は必要ないのです。成田山や明治神宮が初詣のお賽銭を会計報告したなどと言う話は聞いたことがありません。献金は、した時点で必要条件が完結されているのです。ただ、文部省と税務署への報告義務のために会計報告があるのと、実際どれくらいがどのように使われたかは知りたいものです。教会によっては実際に会計報告をしないところもあります。そういう教会では、信徒は神様に知られていればそれで十分だと考えています。やもめのように。
 さて、人間は創造された日から神様に捧げものを捧げました。

ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。創世記4:34

ここはアダムとエバの子供たちが、親から独立して最初の礼拝を行ったことの記録です。そして礼拝とは“捧げること”を伴っていることが判ります。カインもアベルも両親から、神への礼拝には罪を清める「羊の血」の贖いを持って行かなければならないと言うことを教えられていたはずです。しかし、カインはそれを無視したのです。
イエス様は献金が誰に捧げられるのかを語られました。

また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」彼は「納めます。」と言って、家にはいると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」マタイ17:24〜27

 イエス様は献金が自分の父である神に捧げられるものだから子供である自分はしなくても良いのだと言っておられます。しかし、人々を納得させるために特別な方法で捧げられたのです。

ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。出エジプト34:20

 ここには神の前に出るときには手ぶらで出てはいけないと書かれています。礼拝は神に賛美を捧げること、御言葉を聞くこと、財産を捧げること、交わりを持つことが4つの要素です。もし、私たちが神への感謝をいっぱい持っていても、それを形にしなければそれは口先だけの信仰になります。

もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」ヤコブ2: 15〜18

これと同じです。神への感謝も行いがなければなりません。さらに、
あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。ルカ12:34 とあります。心があるなら宝も捧げられなければなりません。
さて、これらは礼拝における献金のことですが、この他に収入の十分の一を捧げる十分の一献金と言うものがあります。

こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。レビ記27:30

実は、前に、救われたばかりの人に仕事を探してあげたことがありました。彼は「最初の給料から十分の一を捧げます」と私に言ったのです。しかし、私は「もう少し後にしようよ」と言って断りました。彼の給料では借金を払い、家賃を払い、十分の一を払ったら足りなくなることは判っていました。長いこと私は、自分は間違っているかなあと思っていました。十分の一献金は祝福を約束していますから、私は彼の祝福を妨げているのではないだろうかと。しかし、十分の一献金は「神の契約の民」となることを意味しています。そして長年の経験から、救われることと契約の民となることは同時ではないように思うのです。個人差があります。また周りの状況で、出来ないこともあります。実際、十分の一献金は生半可な気持ちでは出来るものではありません。
牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。レビ記27:32
あなたが羊を飼っていたとしましょう。何百頭か何千頭かわかりませんが、その羊を数えるために狭い所を通し、羊の上に杖を出して、通る羊の十頭に一頭は神のものとして捧げるとしたら、これは半端なことではありません。相当の覚悟が必要です。そして、これは自分が神の所属となることを意味しています。
子羊は飼い主に買い取られたら、まず耳の一部にナイフで傷をつけます。牛は生きている皮膚に焼印を押されます。あるものに所属する時そのしるしがつきます。痛みを伴います。十分の一献金は神の所属であることを自分自身が確認することの証しです。
しかし、実は十分の一献金は聖書の中で最も大胆な祝福が約束されているのです。今、銀行に預けてもこんな利子の約束はされません。

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。マラキ3:10

 神をためす、これは聖書で厳重に禁じられていることです。

あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。申命記6:16

しかし、ここではあえてためしてみよと言われています。そうするなら神が「あなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか」。
今、世界の富の90%はユダヤ人が持っていると言われています。十分の一を捧げたユダヤ人が十分の九を持ち、十分の一を捧げなかった異邦人が十分の一で生活しているとは何と皮肉ではありませんか。
アメリカの貧しい雑貨屋が練り歯磨きを考えました。そして「神様、これが売れたら十分の一を捧げます」と祈ると大いに売れました。そしてアメリカでも最大の歯磨き用品の会社となりました。その人の名をコルゲートさんと言いました。
それにしても、これはもう十分の一貯金と呼ぶべきです。あなたが「神の契約の民」になるために、神の所属となるために、時が来たら十分の一献金を始めてください。もし配偶者が未信者で理解を得られないときは二十分の一を目標にされると良いでしょう。しかし、全ての献金がそうであるように、これはまったく自発的なものなのです。

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。Uコリント9:6〜12
祝福がありますように。あふれるばかりに。


 
*この他、イスラエルの初子の代わりにレビ人が選ばれ、そのレビ人に十分の一が与えられる事などについて語りましたが紙面の都合で省略します。出エジプト13:2、民数記18:21、民数記18:26 民数記3:12〜13、3:42〜51を参考にしてください。レビ人は今の聖職者です。

*十分の一がモーセの律法より前からあったことについては創世記14:18〜20。

*特別な祝福や導きを求めて、信仰の力のある人に祈っていただいた時の感謝については、Tサムエル9:1〜10を参考にしてください。昔から神の特別な器にはそれなりの感謝の捧げものがあったのです。そうでなければそれらの人々の生活が成り立ちません。