メッセージ 2001・ 4 ・15   小 石 泉 牧師

復   活

キリスト教とは一言でいうと復活の宗教です。永遠の命の宗教です。復活、永遠の命、は古代社会の人々の最大のテーマでした。ピラミッドもそのために造られました。現代人は復活とか永遠の命とかについてあまり考えません。私の作った言葉に「神は永遠の喜びを与え、悪魔は一瞬の快楽を与える」と言うものがあります。名言ですね…?
さて、しかし、旧約聖書には復活とかよみがえりという言葉はあまり出てきません。イザヤ書には全く矛盾する言葉が並んでいます。

死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。イザヤ26:14

あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は使者の霊を生き返らせます。26:19

 この個所は神の救いと裁き、正しい者と悪人が交互に現れるところで、前は悪人、後は正しい人の運命を語っているのでしょう。この中で「光の露」という言葉は不思議な言葉です。英語訳には出てきませんが恐らく日本語訳の方が原語に忠実なのでしょう。なんだか神秘的な言葉です。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。Tコリント15:36

 パウロ先生は復活を「最も大切なこと」の一つとしています。

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。1コリ15:12〜15

このように復活こそキリスト教信仰の基礎なのです。もしあなたが神様を見失ったり、信仰が判らなくなった時、心の中でイエス様の墓の前に立ってください。そしてイエス様の死体が今でも地上のどこかにあるか自問してください。釈迦の骨は仏舎利として世界中で尊ばれていますがイエス様の骨はどこにもありません。まさに「その方はここにはおられない。よみがえられたのだ。」という天使の証言の通りです。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 Tコリント15:20

イエス様は私たちに御自分の復活の命を与えるために、最初の実となってくださいました。私たちもキリストと同じように復活します。

イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。ヨハネ11:23~25

 何と不思議な言葉でしょうか。とても常識では考えられない言葉です。しかし、これこそ真実であり、私たちの信仰であり、希望であるのです。そして私たちは「死ぬことが出来ない」のです!

彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。ルカ20:36  

私たちにはもう墓は必要ありません。しかし、世間の人々のために一応、骨を入れる場所は造っておきますが。
一方、それこそ全く死を経験しないで復活の命に至る人々もいます。それはキリストの再臨まで生きている人々です。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。1テサロニケ4:16〜17

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」1コリント15:52〜55

このように再臨の時の復活は一瞬のうちに来るとあります。私たちの痛みやすい肉体、みにくい性質、弱い信仰は一瞬のうちに全く変わります。清い、傷の無い、聖なる体に変身します。私たちはその時、朽ちる体を着物のように脱ぎ捨て、朽ちない体を着るのです。何という希望でしょうか。私は良く言うのですが、こんなことは嘘でも信じたいです。しかし、こんな希望の言葉はデタラメであるはずがありません。デタラメや無秩序から良いものは生まれてきません。これは真実の言葉です。
ところが、パウロ先生は次のような言葉を残しておられます。

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ピリピ3:10〜14

 おやおや、復活の命はイエス様の十字架の贖いによって保証されていたのではなかったのですか? ローマ書はそのことを力強く論証していたのではなかったのでしょうか。
確かにここはパウロ先生が血を吐くようにして語った恵みによる救いとは矛盾します。
ここでパウロ先生は信仰を軽々しく受け止め、安楽や放縦に走るのを戒めておられるのでしょう。事実、パウロ先生の生涯は苦しみに満ちたものでした。真実と確信はやすやすと手に入れるものではないのです。苦悩と痛みがあって初めて本物となります。しかし、それは私たちに約束されている希望に比べれば取るにたらないほどのものです。
私たちは復活します! 永遠にキリストと共に生きます!