メッセージ 2001・4 ・ 8    小 石 泉 牧師

死について

来週の日曜日は復活祭です。それでその前に死について考えましょう。全聖書の内、死という言葉は1110回出て来ます。(口語訳は1091回)、命は324回、他にいのちは435回合計759回(口語訳では命は512回、いのちは124回で合計636回)ですから死の方が命より多く出てくるわけです。私たちクリスチャンにとって死はキリストによって滅ぼされ、もはや力がありません。しかし、死を軽はずみに考えるべきではありません。それを聖書から学びましょう。

マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。ヨハネ11:32〜35

イエス様が涙を流されたのはこの場所とゲッセマネの園、そしてオリーブ山でエルサレムを見て泣いた時だけです。愛する友人ラザロの死に対して、イエス様は憤り、心を動揺され、涙を流されました。時々、キリスト教会の中には、死は恐れるものではないから死んでも泣く必要はないなどという場合がありますが、イエス様は死に際して涙を流されました。死は人間にとって最も重大な事柄だからです。特に日本人は死に対して全く無力です。切腹、特攻隊など命を軽んじる傾向はありますが、一般には、死は最も恐れられていることです。そして死については考えないようにしているのです。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。へブル2:14 15

 イエス様は人間となられた時、死をも経験されました。神の御子が死んだのです。
生きている者である。わたしは死んだが*、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。黙示録1:18(*口語訳「死んだことはあるが」)
神が死んだことがあるというのも奇妙な話です。これは神にとって不名誉な言葉のように見えますが、御子は自分のために死んだのではなく人類のために死を経験されたのです。全く罪のない神の御子が、罪人の犠牲となって死を経験されたことは天使やサタンも考えつかなかった名誉なことでした。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 創世記2:17

 神が天地を創造された時、死も創造されたのでしょうか。植物や動物が死んで、分解され、それが新しい命の養分となるシステムを考えると、神様は創造の時に、死も創造されたと考えられます。この御言葉の必ず死ぬという言葉は「死にに死ぬ」という意味で二重の死を意味しています。これは肉体の死と魂の死を意味しているのです。(サタンのことを死の力を持つものという言葉がありますから、天地創造以前にサタンに死がゆだねられたのかもしれません。)

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。ヘブル9:27

 イエス様は血と肉を持ちました。人間になるために。そして死ぬために。人間の一番悲しい運命を共に味わうために。

ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。へブル2:9

 しかし、神の御子の死は死で終わることはありません。
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。へブル5:7
なんと驚くべきことでしょう。イエス様が死から救われたのは御自身の神としての御力ではなく普通の人間の方法、祈りと願いだったと聖書は言います! 神の子はまるで人のように“敬虔さ”で死から救われたのだと聖書は言うのです!
さて、人間には二重の死があります。肉体の死と魂の死です。

また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。マタイ10:28

しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。黙示録21:8
 この第二の死の特徴は恐ろしいことはもちろんですが、第一の死のように自分で決めることが出来ないということです。どんなに苦しくてもそこから逃れることは出来ません。実に人類がその歴史上最も恐れたのはこの第二の死ではなかったでしょうか。特に仏教においてはなぜかこれと良く似た情景が生々しく教えられ、描かれ、語り継がれました。中世のキリスト教もこれを用いて大いに金儲けをしたのです。

 その情景はあの金持ちとラザロの物語に良く表されています。イエス様はこの二重の死を経験されました。
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。使徒2:31


だからこそイエス様はキリストとなられたのです。それだけではありません。私たちクリスチャンは復活を約束されていますが、それでも死の門はくぐります。
あるクリスチャンは死に臨んで「おや、向こうはもっと明るいよ」と言ったといいます。また「ああ、美しい」と言いながら死んだ人も居ます。また奥さんが「お食事が出来ましたよ」と言うと「もう、いいよ向こうで食べるから」と言ったそうです。私の父も死ぬ前日、ベッドの上で天井を見上げて「はい、主よ、小石はここに居ります、間もなくみそばに参ります。」と言って翌日、本当に死にました。
そういう話を聞いても少しは不安でしょう。何しろ全く行った事のない所に行くのですから。しかし、ご安心下さい。聖書には次のような約束があります。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。詩篇23:4

 インマヌエル「主は共に居ます」というお方は死の陰の谷に入る時にも「共に居てくださる」お方です。私たちは安らかにその日を迎えられることでしょう。