メッセージ 2001・4 ・1       小 石 泉 牧師

人の評価と神の評価

今年の学生キャンプの時、一人の高校生の女の子がいじめで学校をやめた証しをしていました。その子は明るい元気な子だったので少しびっくりしました。それで今日はいじめを通して人生に置ける人間の評価と神の評価をどう受け止めるかについて考えましょう。いじめで人生を狂わされ自殺さえする子供たちがいます。これは非常に深刻な問題です。
今回の学生キャンプのメッセンジャーは何度もイザヤ書43:4の「 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」を引用して優しく愛に満ちたお話をされました。人間同士ではこのような言葉はごく限られた間柄だけでしか語られません。
日本はいじめ先進国です。最近はアメリカでもいじめは大きな問題になってきていますが日本の場合は深刻です。(広い意味で人種差別もいじめになるかもしれませんが。)これは日本の地理的な特性から来ているのかもしれません。周りを全て海に囲まれた日本列島という限られた地域に押し込められ、特に江戸時代の閉鎖的な環境に培われた日本人の精神構造が今に伝えられているのだろうと考えています。こう言う精神構造を心理学的に「収容所症候群」と呼びます。ある限定された環境に置かれると人間は自分よりも弱いものを見つけていじめることによって開放感を得るのです。
昔、神学校の教授だったボイド先生と言う方の奥様に英語を習っていました。先生がアメリカに帰られる時、日本人をどう思いますかと聞きました。すると一言、「ジェラシー」と答えられました。嫉妬深い。日本人はねたみの民族だと言われたのです。神学校と言う狭い環境の中で三年間を過ごされた方がそう言う印象を持っていたということに驚いたことを忘れることが出来ません。恥ずかしさと共に。私たちには無意識の内にねたむ心が深く根付いているのかもしれません。
さて、こう言う環境の中で私たちはどう対処したら良いのでしょうか。まず、初めに
1.「他人に自分の将来や大きさを決めてもらってはならない。」と言うことです。普通、他人は決してあなたのために良いことを願ってはいません。心からあなたのことを思っている人、愛している人以外は、悲しいことですがそういうものです。だから聖書は、“あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。”イザヤ2:22(口語訳) と言っているのです。
他人の言葉にあまり多くの助けを期待すべきではないし、それによって傷つくべきではありません。しかし、意外にこれは大きなものです。私たちは簡単に他人の言葉によって傷つくものです。聖書はこう言っています。

“強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主御自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。申命記31:6

どんな時も神様は私を愛し、見放すことも見捨てることもないということを堅く信じ、口で告白することです。「神様は私を見放すことも、見捨てることもない。」と。
どうして他人の言葉に傷つくかと言うと私たちの中に「みんなに愛されたい、認められたい。」という願いがあるからです。これは人間の非常に強い願望です。しかし、
2.「全ての人を満足させることは出来ない。」と言うことを覚えておくべきです。それどころかイエス様はとんでもないことを言われました。
“みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者*です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。”ルカ6:26(*口語訳は「わざわいだ」)
もちろんここは預言者の受ける扱いを言っているのですが、多くの人に認められることが良いこととは限らないと言う原則はユダヤ教にもあります。ユダヤ人は全員一致の表決は無効とされます。(イザヤ・ベンダサン「日本人とユダヤ人」より)
聖書の人物を考えてください。ノアは雨が降るまでは山?の上に船を作る気違いじじいでした。アブラハムは九十九歳まで子供のいない気の毒な男でした。モーセは殺人者でお尋ね者、40年間しがない羊飼いでした。ダビデは末っ子で王にねたまれ逃げ回っていました。当時の人々は彼を助けることを恐れました。エレミヤは当時の宗教、政治家ばかりでなく全国民から憎まれていました。イエス様は石造りらの捨てた石でした。弟子たちは無学な只の人と言われました。パウロはキリストの迫害者という過去を持っていたためになかなか弟子たちに受け入れられませんでした。

“しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。”Tサムエル16:7(口語訳)

人は外側しか見ることが出来ません。しかし、神は人の内側を評価されます。あなたは神の目で自分を見るべきです。「身勝手」、「ひとりよがり」、「独善的」、「傲慢」、「信仰をはきちがえている」、何と言われようと神と自分の関係に他人の評価を受け入れてはならないのです。なぜならほとんどの場合、あなたを批評する人はあなたのために救いの手を差し伸べているのではないからです。あなたを助けようとしている人は決してそういう言葉は言いません。他人にあなたの心まで攻撃させてはいけません。

“それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。”Tコリント1:27〜31(口語訳)

 私たちは小さく、愚かで、無に等しくとも、神様は私たちを愛し、それは永久に変わりません。神の評価をいつも心に留めておきましょう。
フイリップ・ヤンシ−さんの「教会」という本に。ある貧しい地域にある高校のオーケストラがベートーベンの第九を演奏する話があります。それは話にならないほどひどい演奏でした。しかし、この学校の校長先生は、この地域の人々はこのオーケストラでしかベートーベンの第九を聞けないから、演奏するのですと言います。教会は神の希望とはかけ離れたものであっても、それしかないのです。あなたは聖書のクリスチャンの基準よりもかけ離れているけれども他にいないのです。私は理想の牧師とはかけ離れているけれども、私からしか福音を聞くことが出来ない人のために牧師をします。

“神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”ローマ8:30〜39

「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害
ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」
 こんなにも確実な保証があるのです。私たちは神に愛され、神に選ばれ、保証されています。人を恐れてはならないのです。勇気を持って生きましょう。

追記:アメリカではいじめられた子供に対するケアもさることながら、いじめる子供の心のケアにも多くの注意が払われるようです。しかし、それはまた別の問題です。今回は神にある生き方について考えました。