メッセージ 2001・ 3 ・25   小 石 泉 牧師

神様が見えますか

自分にとってあまりにも当然なことが、他の人にとって当然ではないということに気がつく時があります。そんな時、さてどうして説明したら良いものかと戸惑います。私にとって神の存在がそうです。私にとって神は「在りて有るもの」で、そこに居られるから居られるでしょう、という他ないのです。ところが神を信じないと言う人はどう説明しても判らないのです。時にはクリスチャンと言う人でさえ神を本当にいると思っているのだろうかと疑問に思うことがあります。本当に神を第三者として認めていますか、と聞きたくなります。あまりにも自分ばかりしか見ていないのです。そんな人には「ほら、そこにおられますよ、障子の向こうに」とでも言いたくなるのです。
空気を考えてください。空気は目に見えませんが、無くなったら人間はたちまち死にます。同様に神は目には見えませんが居なかったら人間はたちまち死にます。空気は私たちの中にあり、そばにあります。同様に神は私たちの中にあり、そばにおられます。時々酸欠死の話がありますがクリスチャンでも時々、神を忘れると酸欠状態になります。
最近のキリスト教は、神は見えなければならないと言っているように思います。鮮やかな御臨在があった。祈りが答えられた。神が働かれた。興奮した。etc.etc.
なぜ、神が特別働かなければならないのでしょうか。なぜ神がそのままでいてはいけないのでしょうか。本当は、神は神であれば良いのです。人間の希望をかなえなければ居なくなるわけではないのです。しかし、しばしば神が自分の思い通りにならないからと言って不平を言い、神に失望したと言うのです。
どんな名優でも、舞台監督、演出家、照明、音響などのスタッフがいなければ演技をすることが出来ません。どんな名馬も調教師がいなければ才能を発揮することが出来ません。「白楽、無きをいかんせん」という言葉があります。名調教師、白楽が居なかったらどんな名馬でも勝利できないのです。同じように私たちも一人で舞台で踊っているのではありません。神という演出家、白楽がいなければ名優にも名馬にもなれないのです。人間はみんな自己中心で神にその存在を与えません。自分の権利を主張するだけで、神の権利を認めません。その結果、毎日不平と不満、満たされない生活を送ることになるのです。
最善の人生を送りたいなら、最高の演出家にあなたをゆだねることです。最高の調教師にあなたを任せることです。あなたが本当にクリスチャンなら、本当はもう自分なんてどうでも良いのです。神の思いの方が重要です。パウロ先生はそのことをこう言っています。

“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。”ガラテヤ2:20

 聖書の中で神は御自分を無視し、存在を全く認めない人々にも呼びかけておられます。

“わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。”イザヤ65:1(口語訳)

なんだかちょっと物悲しくなりませんか。神が「わたしはここに居る、わたしはここに居る。」と言わなければならないなんて。しかし、それでも人間は神を認めません。さらに驚くべきことに神のお名前は「居る」というのです。

“モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」”出エジプト3:13〜14

「わたしはある。」という言葉は、へブル語でエヒエー・アシエ・エヒエ、略してヤハウエと言います。これはBe動詞のamに当たる言葉でI am that I am.「わたしは在りて有る者」です。もともと名前と言うのは何かを他と区別するためにあるものです。だから神に名前をつけるのは変なのです。唯一の神は他のものと区別する必要はありません。しかし、人間のために仕方がなく名づけたものです。それは「有る」または「居る」という意味を名前にしたのです。イエス様はあるとき御自分をそう呼ばれました。

“女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」”ヨハネ4:25〜26


サマリヤの井戸のほとりで水を汲みに来た罪深い女に言われた言葉ですが、この「わたしがそれだ」と言う言葉を当時のイスラエルの言語アラム語に直すとやはりエヒエー・アシエ・エヒエ「わたしはある」と同じ意味になるそうです。
 さて、神は見えません。そして信仰とは見えないものを見ることです。

“信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。” へブル11:24〜27  


 神は見えません。では神が見えたら人間はどう感じるのでしょうか。預言者イザヤは、その若き日に、神を直接見たのではありませんが、神の栄光を見ました。

“ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。”イザヤ6:1

人は神を見た時恐れるものです。私も若いころ祈りの内に神の御臨在に触れた時、思わず悲鳴をあげました。人間は神の前には何と小さく、罪深いものでしょうか。私はその時、自分が一枚の枯葉よりはかなく空しい存在に感じました。
フィリップ・ヤンシ−さんの「神に失望したとき」という本の中に、なぜ神が人間に御自分を現さないかが説明されています。それは愛のゆえです。ヤンシーさんは、神は人間を愛によって獲得しようとされたので、御自分に制限を設けられたと説明します。奇跡、力、驚くような出来事で人々を引きつけても、そこに愛による結びつきは生まれません。実際、神が頻繁に圧倒的に御自身を人間の前に現された出エジプト記では、イスラエルは信仰に進むのではなく、いつも不信仰に走ったではないかと指摘します。
これは実に重大な問題です。神は人間に完全な自由を与えました。人間をコントロールすることをやめたのです。人間が何をするかをあえて判らないことにされました。どんな小さな強制も愛を踏みにじります。神は御自身の手を縛り、人間に完全な自由、神を否定する自由さえも与えました。そして人間が自分から神を求めて近づく道を作られたのです。そして神を離れて罪を犯しつづける人間を裁くのではなく、ご自身が犠牲となられ、御子がその御心を実行されました。十字架は人間に与えた自由の代償です。
愛とは何と残酷なものでしょうか。神にとって人間に奇跡、力、強権をもって平和や真理の道を教えることは出来たのです。しかし、一切の干渉を避けました。これが人間から見ると薄情で、不公平で、必要な時にも沈黙し、居て欲しい時にも隠れているように見えるのです。こうして時間が過ぎて、その間に心から神を愛し、御心を求めて生きる人々が現れました。その数が満ちる時、神は再び御自身の力をもってこの世界に介入されるでしょう。ですから冒頭に述べたように、神を神としてあがめ、喜び、いつも心に意識して生きることこそ神の求めておられる人間の道なのです。
私はある種のクリスチャンと言う人々が、神に、とても他人行儀に接したり、まるで遠い国のはるかな物語の主人公のように受け止めているのが不思議でなりません。私にとって神はそこにあなたが居る以上の現実です。私には神が見えています。すぐそこに。この確信は誰も取り去ることは出来ません。そしてこれはもちろん私だけでなく、本当のクリスチャンの告白でもあるのです。