メッセージ 2001・3・11 小 石 泉 牧師
もう一人の助け主
“わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。”ヨハネ14:16〜20
イエス様は十字架に掛かられる前、弟子たちに遺言をされました。それは普通一般の遺言とは非常に違う遺言でした。まず、「もう一人の助け主」を送ると約束されたのです。その助け主とはギリシャ語ではパラクレートスと言います。パラチフス、パラコレラなどのようにパラとは近いと言う意味です。その助け主とはイエス様にごく近い方、聖霊様でした。またこの方は私たちの身近にいてくださる方でもありました。その方は「あなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」と主は言われました。聖霊様は私たちと共にWith住み、中にInおられるのです。
その上、イエス様は決定的なことを言われました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」。戦後私たちは沢山の孤児を見てきました。そして今また孤児が沢山います。そればかりではありません、私は牧師をやってきて多くの孤児のように生きてきた人々に会いました。実際には孤児ではないのに、心の中では孤児のように孤独で淋しい人々です。イエス様はあなたがたを孤児にはしないとおっしゃいます。神は多くの人々の父であり悲しむ人々の完全な慰めなのです。
“しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。”14:26〜27
この助け主はすべてのことを教えると言うのです。私たちはみんな神から直接に真理を教えられるのです。誰か特別な超能力者や悟りを開いた超人的な人というのではなく、私たち全てが等しく真理を悟るのです。そこには何らの人種や人格の差別も能力の差もありません。そして主は“平安”を与えてくださるとも約束されました。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」 平安とはイエス様の言葉(当時はヘブル語ではなくアラム語がつかわれていた)ではシャロームですが、ヨハネはそれをギリシャ語でアイリーンと書いています。その平安を「残す」、英語ではLeave、また与えるGiveといわれました。残す、置いて行く、与えると言われるのに、あなたはその平安を持っていますか? それは「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」という平安です。だから「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と言われているのになかなかそうは行かないのが現実です。しかし、私たちはこのような言葉を与えられているのですから、信じて歩みましょう。そうするなら、
“わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。”15:11
とあるからです。
ところで最近、聖霊のご人格を誤って強調し、イエス様は今、天国におられて留守だから聖霊に祈ったり語ったりすべきだという非常に巧妙な惑わしが現れています。
“わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。”15:26
とあるように聖霊はイエス様を証しされる方で、御自身がイエス様の前に現れることはありません。イエス様が最高に理解される時、そこに聖霊が働いておられるのです。これは誤りやすい誤解ですから気をつけましょう。特にアメリカから来るリバイバルムーブメントに多いようです。
“しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。”16:7
「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです」。確かにそうです。もし、イエス様が人間の姿を持って2000年間生きておられたとして、一体、幾人の人々がお会いし、癒しや御言葉を聞くことが出来たでしょうか。一人の人間には限界があります。しかし、霊の形ならどんな数の人にでも同じに会うことも癒すことも教えることもできるのです。また霊ですからいつでもどこでもWith、側にいて、In、内にいて下さる事が出来たのです。
私たちは、「これが聖霊だ」とはっきり判ると言うことはなかなかありません。どこからどこまでが自分の思いで、どこからどこまでが聖霊の思いかなかなか区別できないものです。聖霊は本当にひそかに、やさしく、おだやかに、どちらかというと遠慮がちに私たちのそばに、内におられます。だからこそイエス様は聖霊に逆らうものは許されないと言ったのです。それでも長い間クリスチャンをやっていると、ああ、聖霊が導いておられたのだということが理解できます。私は聖霊を見に見えるように言う人が信じられません。むしろイエス様が見えるように言う方が信じられます。その時こそ聖霊は働いておられるのです。
“その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。”16:8
“わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。”16:12〜14
これらの御言葉を読むとイエス様と聖霊の役割がはっきり判ります。そして聖霊が慕わしく感じられませんか。そうしたらそんなに遠くに捜しに行く必要はありません。聖霊様は韓国やアメリカやブラジルに行かなければ会えないお方ではありません。その方はあなたと共に住み、あなたの内にいてくださるとイエス様が言っておられるのですから。