メッセージ 2001・2 ・25   小 石 泉 牧師

創世記のキリスト−W
アブラハム

 アブラハムは神の友と呼ばれ、神に最も信頼された人です。この話は99歳で子供を与えられ、しばらくしてからのことです。99歳にもなってもうけた子供はどれほど可愛かったことでしょう。いつのまにか神より大切なものになっていたのかもしれません。

“これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。”創世記22:1〜5

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」。これはまた何と丁寧な言い方でしょうか。この言葉をそのまま「神の子、神の愛するひとり子イエス」と読みなおしても良さそうです。その子をモリヤの地で全焼のいけにえ(口語訳聖書では燔祭)として捧げなさいというのです。これはアブラハムにとって非常に過酷な要求です。その上、聖書の神にはあまり似つかわしくない要求でした。当時の世界は子供を殺して捧げる偶像崇拝が盛んでした。聖書の中で神はその事を憤り悲しんでおられます。しかし、実はこのアブラハムの物語は正確にそれから2000年後のイエス・キリストを表した象徴なのです。

“アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。”22:6〜8

自分を焼くたきぎを背負ったイサクは何歳ぐらいだったのでしょうか。イサクを焼くことが出来るたきぎというからにはそれほど大きくは無かったに違いありません。(一般には15、6歳と言われていますが5、6歳だったのではないでしょうか)しかし、それだからこそ、それを見るアブラハムはどんなに辛かったことでしょう。「お父さん」「何だ、イサク」はいただけません。珍しく翻訳者の意図があらわになった訳です。ここは口語訳の「子よ、わたしはここにいます」の方が原語に近いでしょう。原文にはイサクという名前が語られていないのですから。もっとも意味はその通りです。
「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」(口語訳)イサクの無邪気な質問もアブラハムの胸を刺します。「神みずから備えてくださるであろう」この言葉の意味を私は長い間知りませんでした。モリヤの山はエルサレムのシオンの丘、今はイスラム教の「岩のドーム」の立っている場所と言い習わされています。この岩の上でアブラハムはイサクを捧げたのです。
 実は日曜日の説教の後で、モリヤと言う地名がなんとなく気になって、調べてみてびっくりしました。何とモリヤとは「ヤハウエは備える」だったのです! アブラハムはイサクの質問にモリヤという地名を意識して答えているのです。

“ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。”22:9〜14

新年聖会の時に北野先生がお話になったように“アブラハムは途中で止めませんでした”彼は神に最後まで忠実でした。御使いは降り下ろされる刀を止めました。「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」そう言われた2000年後に神御自身はこのモリヤの丘からほど近いゴルゴタで自分のひとり子を惜しまないで私たち罪人のためにささげられました。これは正にイエスキリストの犠牲の明白な絵です。
そして、アブラハムはここをアドナイ・イルエ、またはアドナイエレ、「主の山に備えあり」と呼びました。アドナイとは主という一般名詞です。新改訳聖書で主と太文字で書かれているのは、本当はヤハウエという神の固有名詞です。みだりに唱えてはならないという警告にしたがってアドナイという一般名詞が使われます。ですからこれはモリヤと同一の意味です。モリヤ「主は備える」場所で、アドナイ・イルエ「主は備えられた」のです。そして2000年後に、その場所で、主は私たちの救い主を備えられました。

さて、この他、次のような象徴があります。
■りべカ
 イサクの花嫁、リベカもイエス様の花嫁、教会の姿です。アブラハムは忠実な僕エリエゼルに息子の花嫁を探すことを託します。エリエゼルは長い旅の末に神の導きで、アブラハムの兄弟ナホルの娘リベカに出会い連れてくるのですが、これはアブラハムは神、イサクはイエス、エリエゼルは聖霊の象徴と考えられています。24章。
■ヤコブのはしご
 ヤコブが旅路の途中で見た夢に出てきた、天使が上り下りしていたはしごも主イエスの十字架の象徴と言われています。イエス様もはっきりと言われました。“そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」”ヨハネ1:51
■ヨセフ
イサクの子、ヤコブの11番目の子ヨセフは兄弟に憎まれ、殺されかかり、奴隷として売られ、エジプトで宰相となり、兄弟たちが飢饉のときに助けを求めて来ると言う劇的な姿で主イエスの象徴となりました。「家造りらの捨てた石が隅の頭石となった」実例です。またヨセフはその高潔な人柄でイエスの象徴ともなりました。37章以降。
■ユダ
 ユダはヤコブの4番目の子です。彼は有能で兄弟たちのリーダーになったようです。しかし、ヨセフをエジプトに売る提案をしました。その後飢饉の時にヨセフの弟ベニヤミンをエジプトに置いて行けと言うヨセフの命令にこう答えました。“このしもべは私の父に、『もし私があの子をあなたのところに連れ戻さなかったら、私は永久にあなたに対して罪ある者となります。』と言って、あの子の保証をしているのです。ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」”44:32〜34
 彼はベニヤミンの代わりに自分が人質になると申し出ることによって、自分の罪の悔い改めをしたのですが、身代わりと言う意味においてイエス様の象徴となりました。

さて、こうして見てくると創世記には実に沢山のイエス様の象徴があることに驚かされます。もう一度それらを並べてみます。

言葉、われわれ、アダム、エバ、いのちの木、女の子孫、皮の衣、いばら、アベルのいけにえ、ノアの箱舟、主の使い、メルキゼデク、アブラハムとイサク、ヤコブのはしご、リベカ、ヨセフ、ユダ。創世記だけでもこれだけあるのです。この他にもあるかもしれません。ではどうしてこんなに沢山の象徴があるのでしょうか。それはイエスという人を表すのには到底一人の人、一つの物事では足りないからです。新約聖書はイエスをこう言い表しています。
“ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”
ヨハネ1:14

“教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。”エペソ1:23


“キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。” ピリピ2:6〜7

“御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。”へブル1:3


キリストは神の栄光、一切のものを満たす方、神の御姿、完全な現れです。このような方をどうして人間に理解させようかと神様は苦心なさったのです。しかし、百聞は一見にしかずと言います。ある日、キリストと顔を顔とを合わせてまみえるとき、全ての疑問は解決されるでしょう。

“今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。”Tコリント13:12