メッセージ 2001・ 2・ 18   小 石 泉 牧師

創世記のキリスト−V
メルキゼデク

旧約聖書の中で最も不思議な人物はメルキゼデクでしょう。ところがその不思議は実は新約聖書によってさらに増すのです。このメルキゼデクは神が御自分の真理を知らす方法の最も典型的な例と言えるかもしれません。もし新約聖書の解説が無ければメルキゼデクについては何も判らないことでしょう。そして大変短く、数少ない節によってそれが判るのです。ユダヤ人で本当に真摯な人ならこの新約聖書の説明を受ければイエスがキリストだと信じないわけには行かないはずです。そしてそれはメルキゼデクという人物が明白にイエスがキリストであるために必要不可欠であったことが判るのです。

“こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。”創世記14:17~20

長い話を短くすれば、これはアブラム、後のアブラハムが親戚のロトが敵軍に捕らわれた時に迅速果敢な行動によってとり返した後の話です。アブラハムは318人の良く訓練され強力な軍隊を迅速に派遣できる力をもっていたのです。弱々しい取り澄ました聖人ではなかったことを覚えましょう。また事に当たっては軍事力も用いたことも覚えましょう。
驚くべき果敢な行動で勝利して帰ったアブラムをサレム、後のエルサレムの王メルキゼデクは迎え、パンとぶどう酒を与えて祝福しました。一体メルキゼデクとは何者でしょう? 旧約聖書はここと詩篇とだけにメルキゼデクを紹介しています。

“主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」”詩篇110:4


これでは何が何だか判りません。ここにあるのは言わば問題の提起であって解答ではありません。旧約聖書だけではメルキゼデクは謎のままです。ですから聖書は新約聖書があって初めて完結する書物だと判るのです。若いころ「傾向と対策」なんていう参考書を勉強しませんでしたか。まさに旧約聖書は問題集、新約聖書は解答集です。ユダヤ教は問題だけを提示し、キリスト教はその解答を示していることが判るでしょう。
このメルキゼデクに対して、新約聖書のへブル人への手紙は大胆にそしてまるで一人の人が計画的に書いたようにその素顔と意味を明らかにしてくれます。
“このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。”へブル7:1~4
「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが」。全く唐突に私たちは神の民の系図を飛び越えた神の祭司に出会います。それまでアダムからノアを経てアブラハムに至る神の選民の系図が唯一のものと私たちは思っていたのです。しかし、ここに別の系統の選民を紹介されたのです。一体、メルキゼデクはどういう系統で神の祭司だったのでしょうか。それは謎のままです。なにしろ「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」と書かれているのですから。彼は人なのでしょうか。彼は生まれて死んだのでしょうか。彼の墓はどこにあるのでしょうか。彼には子孫がいたのでしょうか。一切は謎です。これは系図を重んじるユダヤ人の思想や聖書の思想にすらあった試しがありません。彼は神の子キリストの受肉前の姿だという人もいます。確かに彼が差し出したパンとぶどう酒を見るとイエス・キリストを彷彿とさせます。しかし、私たちは、謎は謎のままで置きましょう。いつか神御自身が明らかにして下さるまで謎があっても良いではありませんか。
ただ、このメルキゼデクの登場にはある不可欠な要因があったのです。
“レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他のばあいは、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、・・民はそれを基礎として律法を与えられたのです。・・それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。”へブル7:5~11
イエス様は私たちの身代わりの小羊として十字架の上で血を流されました。その血は神殿の、契約の箱の蓋“贖罪所”に注がれなければなりません。そして事実、その血は地震によって裂けた岩の割れ目を通って、エレミヤの時代にゴルゴタの丘の下の洞窟に隠された契約の箱の上に注がれました。(その意味で数年前のロン・ワイアットさんの、契約の箱の発見は驚くべき真理を明らかにしたのです。)しかし、その血を捧げることが出来たのはレビ族の大祭司と限られていました。ところがイエス様はユダ族です。(ユダの獅子とも言う)これは困った。ユダ族では大祭司にはなれません。
神様はイエス様の2000年前にその準備をされ、それを1000年後にダビデの詩篇によって宣言されました。すなわちアブラハムはメルキゼデクを自分に勝る祭司として十分の一を捧げたのです。その十分の一とはその500年後にモーセによってレビ族の祭司の取り分として定められたものです。そのレビはアブラハムのひ孫にあたります。ですからレビが曽祖父のアブラハムを通してメルキゼデクに十分の一を捧げたことになるのです。そしてそのことを1000年後のダビデに書かせたのです。
   BC2000                      BC1000           AD29
  メルキゼデク―――――――――――――――(ダビデ)―――――――イエス
  アブラハム―イサク―ヤコブ―レビ―アロン――祭司たち――

そしてそれから1000年後にイエス様は御自身の血を大祭司として神に捧げたのです。時は丁度、その儀式の行われる過ぎ越しの羊が殺され捧げられている時間でした。こうしてメルキゼデクはキリストの大祭司の権利を保障するために、あらかじめ(2000年も前に)用意された人でした。何という神の御計画。何という周到な準備。何と規律正しい教え。何と律儀な神。
これら全ては、私たちが罪を贖われ、義として神に受け入れられるためでした。