メッセージ 2001・2・17 小 石 泉 牧師
宣教師の心を持って
今日はヨナ書から学びます。全てを読むのは長いので所々かいつまんで読みます。
アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュヘのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。ヨナ1:1〜4
ヨナは預言者として召された人だったのでしょう。しかし、非常に珍しいことにヨナは旧約聖書の内で最初の宣教師となった人です。それもまだユダヤ教だったころ異邦人に神の御心を伝える人となりました。これはその後、キリスト教が生まれるまで無かったことです。さらに珍しいことにこの宣教師は自分が遣わされて国に行くことを拒否し、憎み、滅びることを願っていたのに結果的には相手を救うことになったのです。
この後の話は、多くの方々は良くご存知でしょう。この暴風の由来はこの船の中の誰かその人の神に逆らった人が居るに違いないという船乗りたちの提言で、くじ引きの結果ヨナが選ばれました。随分無茶な発想ですが、昔はそんなに単純だったのでしょう。
ヨナは彼らに言った。「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」その人たちは船を陸に戻そうとこいだがだめだった。海がますます、彼らに向かって荒れたからである。そこで彼らは主に願って言った。「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。1:12〜15
ヨナは自分を海に投げ込めといいます。これはすごい言葉です。ヨナは死んでも行きたくなかったのです。それはニネベがイスラエルの敵国アッシリヤの首都だったからです。ヨナは個人的な好みでこんなことを言ったのではなく愛国心から言ったのです。事実この後、イスラエルはアッシリヤに滅ぼされてしまいます。
しかし、世の中には死ぬよりつらいということもあるのです。
主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。1:17
魚の腹の中に3日間居るということはどんな経験でしょうか。一説によると、本当に魚に飲み込まれた人が生きて帰ってきたことがあったそうですが、彼は全身やけどを負った人のようだったということです。強い胃酸に焼かれたのです。
この経験はヨナには死ぬよりつらいことだったに違いありません。彼は神の前に悔い改めの祈りをしています。そして神様は魚にヨナを吐き出させます。それはニネベの海岸ではなく(ニネベは内陸にある)地中海の沿岸でした。しかし、ある人によると当時ニネベには魚の偶像があり(ダゴン)その腹から出てきた人が来るとニネベは滅びるという伝説があったということです。
長い話を短くすると、ニネベの人々は王から家畜にいたるまで悔い改め、断食をしましたので神様はその災いを思いなおされました。そこでヨナは怒り狂います。
ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」4:1〜3
ヨナはそれでもニネベが滅びることを期待して丘の上から眺めていますが、神様はヨナのために涼しい木陰となるつたの植物を生えさせます。しかし、それを一夜にして枯らせてヨナを教育します。
すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」4:9〜11
ここに神さまの御心があります。それは憐れみの心です。神さまは異教の民族でさえ憐れみを持って愛しておられるのです。
宣教師に必要な心は使わされた国、土地、人々に対して憐れみの心、愛の心を持つことであることは言うまでもありません。それにしてはヨナは何と宣教師の資質に欠けていた事でしょう。それにもかかわらず神さまはヨナを用いたのです。それは恐らく、ヨナ書全体を通して見ることが出来る、ヨナの神さまとの親密さでしょう。ヨナは神の存在を信じるなんてことはしません。ヨナにとって神は目の前のけんかの相手であり、怒り狂う対象です。それにもかかわらずヨナは神さまが「情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていた」のです。
私はこのことから教えられたのです。私たちは伝道するとき、宣教師の心を持つべきです。憐れみの心、愛の心。それが神さまの本当の宣教師です。そうすれば、どうして判らないのだろう、どうして信じられないのだろうといらだつこともないでしょう。
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。ルカ23:33〜34
イエス様は天国からの宣教師でした。その一生は苦難の連続でした。イエス様はヨナとは違って自分から進んで天の位と栄光と富とを捨てて、この地上に来られ、全てを与えて最後に着ている着物まではがれ裸で十字架につかれました。そして御自分の命まで与えられました。その十字架の下で兵士たちは着物をくじ引きしていました。その時、イエス様は言われたのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
許し。徹底的な許し。それが神の宣教師イエス様の姿勢でした。このような心を持つことが出来たら、いつでもどこでも伝道は出来るでしょう。教会を大きくすること。信徒の数を競うことがイエス様の宗教ではありません。
次に、私たちの日常生活での許しの教えを学びましょう。長いですが引用します。
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」マタイ18:21〜35
7を70倍するまで、許しなさい。この言葉ほど世界を驚かせ、その後の世界に大きな影響を与えた言葉も少ないでしょう。しかし、もちろん人間はそうは出来なかったのです。出来ていたら戦争も裁判所も要らなかったはずです。
また、この後のたとえ話の1万タラントの負債は驚くべき意味を持っています。この王様に僕が借りていた1万タラントは約6千デナリだと新解約聖書の注にあります。
1デナリは一日の労働賃金ですから今の約1万円です。すると1万タラントは6千億円です! この負債とは私たち人間が神さまに借りている罪の負い目のことです。それは6千億円にも当たるというのです! あなたはそれを返せますか? それでいて私たちは他人から自分に受けた100万円の罪は許せないのです。
神さまはあのように大きな負債でも許してくださったのです。許し。それを学びましょう。