メッセージ 2001・ 2・ 18 小 石 泉 牧師

創世記のキリスト−U
ノアの箱舟

“主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」”創世記6:5〜7

箱舟は明白にキリストの象徴です。滅亡からの救いをこれほど明白に伝える象徴もありません。何しろ当時、世界の人口が何千万、何億あったかわかりませんが、たった8人を除いて残りの全てが死に絶えたというのですから。この世に終わりが来る。そんなことはあり得るだろうか。あります、確かに一度人類は絶滅の瀬戸際に行ったのです。
当時の人々の邪悪さは「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」と言う言葉で判ります。神が創造の業を悔いたのです。心を痛められたのです。人類を滅亡させようとしたのです。これは想像を絶する出来事です。私たちは良く箱舟の中の話は聞きます。信仰の厚いノアさんとその家族は箱舟に乗って救われましためでたしめでたし。しかし、箱舟の外の話に思いをはせる時、これはあまりにも無残な悲劇です。洪水の時、当時の世界は何千、何万、何億の水死体によって覆われたのです。大人も子供も男も女も犬も牛も羊も豚も。累々たる死体が浮かび、流れ、積み重なりました。
そして聖書は同じことが再び起こると告げています。

“人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。”マタイ24:37〜39

「人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました」なんと分りやすく迫力のある表現でしょうか。まさに滅びは安逸の生活の只中に訪れるのです。そしてイエスさまはここでそのような滅びがもう一度訪れると断言されたのです。私はこう言うことを言って脅かすのはいやですが、これはキリスト教の重大な真理なのです。ノアの箱舟を語る時、滅亡を避けて通ることは出来ません。箱舟は中の8人だけの問題ではないのです。雨が降り水が増して人々が慌ててノアの箱舟に泳ぎ寄っても、箱舟の戸は開きませんでした。それは神御自身が閉められたからです。もしノアが閉めたのなら、ノアは開けたでしょう。その結果、箱舟は重量オーバーで沈んだことでしょう。

“神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。”Uコリント6:2


「今は恵みの時、救いの日」それがある日突然終わり、その後には恵みも救いもどんなに求めても与えられないのです。ペテロもこのことをもっとはっきりと承認しています。

“当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。”Uペテロ3:6〜7

 しかし、箱舟の目的はもっと重大です。
“信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。”へブル11:7
世の罪を定め、信仰による義を相続する。難しい言葉ですが、これがイエスキリストに従う者の受ける地位と名誉です。ノアはそのさきがけとなりました。

“昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。”Tペテロ3:20〜21

この御言葉はあまりにも難しくて今の私には説明できません。とにかく箱舟によってノアたち8人の人々が救われたように、私たちはイエスキリストの中にだけ安全に保たれ、世界の滅びの時にも守られると言うのが聖書の主張です。箱舟は意外に深い真理を宿しているのですね。
主の使い
 さて、次に「主の使い」という名前の登場人物について学びましょう。主の使いと言うと天使のようですが英語の場合ですとthe Angel of the Lord となっていて一見して神だと判るのです。この方は受肉(神が人となること)前のイエスさまです。旧約聖書の中でハガル、アブラハム、モーセ、バラム、ギデオン、マノア、ダビデ、エリヤ、ヨシヤ、イザヤ、ゼカリヤなど多くの人々に表れています。多くの場合神として行動されますが天使の場合も少しあります。

“主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。”創世記16:7〜14

 ハガルは明らかにこの方を神と呼んでいます。人に見える形で表れるのは神の中で人となられたイエスさまです。

“主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。”創世記18:1〜2

この三人はソドムとゴモラを滅ぼしに来た天使ですが、この内一人が受肉前のイエス様であることはその後の話から判ります。詳しいことは別の機会にしますがソドムに行ったのは二人であり、一人はアブラハムと神としての権威をもって語り合いました。
この方はまた、結構ユーモアのある方で、ヤコブとは相撲をとっています。
“ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。”創世記32:24〜30
 こうして見ると、神は案外しばしば地上を訪れておられたことが判ります。ただ新約聖書ではこの言葉は聖霊と同一視されています。(使徒行伝8:26、29のピリポの場合)