メッセージ 2001・2・10 小 石 泉 牧師
義 の 衣
イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」マタイ22:1〜14
日本で伝道していると、この話の前半はまさのそのままです。ここで王とは神様であり王子とはイエス様であることは言うまでもありません。宴会は神の国の福音です。福音を語っても、この世のことに忙しくて、なかなか教会までは来てくれません。それどころか時にはクリスチャンや指導者を殺す国もあるのです。また、招かれていた人々、イスラエル人を指すのでしょう。彼らもまたキリスト教に改宗した人々を殺したのです。そこで神様は誰でも良い、連れてきなさいと言われます。こうして異邦人が福音を知るようになりました。「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」これは伝道の基本です。
ところでこの後に不思議な挿話が書かれています。「そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』
昔、若いころある青年にこの話をすると、彼は言いました。「これはけしからん。この人はきっと貧しかったのだ。そんな人を、礼服をつけていないからといって追い出すなんて。」ここは当時の習慣がわからないと本当に理解できない箇所です。当時、王宮で宴会があったとき、王宮の玄関で王様が出席者に礼服を貸し与えたのです。この人はこの礼服が気に入らなかったのでしょう。それより自分の服のほうが立派だと思ったのです。これは王様に対して非常に失礼な行為でした。
この礼服はイエスキリストの血の贖いによる義の衣を意味しています。もし、私たちが神の前に行くとき、イエス様の十字架の贖いによる義よりも、自分の義の方が勝っていると思うなら、それは途方もない高慢です。私たちの義は決して神の前に出ることなど出来るものではありません。
私たちの義はみな、不潔な着物のようですイザヤ64:6 と書かれているとおりです。
これが全ての宗教とキリスト教の違いの最大の点です。全ての宗教は自分の努力、自分の力で義を求め、救いを求めます。しかし、聖書の宗教は神の努力を頂くだけです。神の御子が天からくだり、私たちのために十字架にかかってくださいました。それを信じるだけで救われるのです。私たちはそれ以外の何もしなくて良いのです。キリスト教とは何と都合の良い宗教でしょうか。しかし、こう書かれています。
とこしえに生きながらえて、墓を見ないためにそのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。詩篇49:8
私たちの命は、自分では作り出すことも出来ず、買うこともできません。どんな金持ちでも神の前に出ることが出来る正しさを買うことは出来ません。どんな聖人も自分の義で命を贖うことは出来ないのです。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。ローマ3:20〜28
人は信仰によってだけ神の前に義とされます。これが信仰の第一歩なのです。これが判らないとキリスト教は判りません。あなたは義の衣を着ていますか? イエス様があなたのために十字架におかかりになって、整えてくださって贖いの礼服です。感謝して受けましょう。賛美しながら着ましょう。
それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」4:1〜8
人間的には不条理に見えることかもしれません。あまりにも都合のよいことに見えるかもしれませんが、逆に努力しなければ救われないとするなら、そこにどれほどの厳しい基準があるでしょうか。その基準は到底人が到達できる高さではないでしょう。
ですから信仰とは自分に失望したものがもっとも早く受け入れることが出来るものです。私たちが抱いている自分への誇り、高慢は天国への障害となります。自分の礼服ではなく、神の礼服をつけるものが救われるのです。