メッセージ 2001・2 ・4   小 石 泉 牧師

創世記のキリスト

 今週から特別なメッセージが与えられない限り旧約聖書の中のイエスキリストについて学びます。創世記は今までにも何度も学んでいますので、良く知っていると思いますが、系統的に漏れなく主イエスを学ぶ機会は貴重だと思います。聖書はさまざまな方法で実に多様なイエス・キリストのひととなりを教えています。それは多くの場合「隠れた神」ですが、わくわくするような魅力を秘めています。

初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。創世記1:1〜3

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。ヨハネ1:1〜3


この二つの御言葉はまるで一対の絵のようにイエス・キリストを描いています。神が仰せられた、言葉を発せられたという時、それは単なる音の振動ではありません。ヨハネによればそれはLogos宇宙の全てを統括するいのちでした。これほど荘厳な権威ある不思議な言葉があるでしょうか。ヨハネはどんな哲学者も考え付かない思想を表現しました。
若いころ日本航空に勤めていたとき、私は外国の航空会社のチケットでJALの区間を乗った場合の請求業務をしていました。時々、Queen’s Baggageという奇妙な切符が入ってきました。それはイギリスの女王様の手紙の入ったバッグのチケットでした。女王様の手紙は荷物としては取り扱われないのです。それは一人の人のようにファーストクラスの座席に置かれました。もちろん外国の航空会社の場合はちゃんと料金を一人前払います。
女王の手紙が人間のように扱われるなら、神の言葉が一人の人格を持っていてもおかしくありません。イエスさまは神の言葉であり神の人間への表現でした。しかし、この神秘は決して地上にあっては説明も納得もいかないものでしょう。実際に見るまでは。

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。”箴言8:22〜31

聖書は真理を一箇所にまとめて書きません。

「それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」。イザヤ28:10 

とあるとおりです。 面白い言葉でしょう。これは重要な言葉ですからぜひ記憶してください。ですから何と箴言に唐突に天地創造の時のイエスさまの姿が明白に現れて来ることもあるのです。この他に創世記には次のような言葉があります。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。ヘブル1:26

 ここにもイエス様が暗示されています。神様が「われわれ」というのも珍しい表現ですがこれは尊敬の複数語とも呼ばれています。ところが「造ろう」という動詞は単数形なのです。たしかに神は三位一体であることが判ります。

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。2:7

 神は人を土から創造されアダム、土と名づけられました。人間は土から造られたから土なのです。しかし、そのかたちは神のかたちでした。このかたちという言葉は英語で言うShapeではなくImageです。キリストが人となったとき、それは当然といえば当然でした。神のかたちですからキリストは人になったのです。アダムが罪を犯したために失った神とのつながりを再建し、死を打ち破るために。

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。ローマ5:12〜17


 だからキリストは最後のアダムと呼ばれています。

聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。Tコリント15:45〜49(口語訳)

 イエス様は最後のアダムとして人間に永遠の命を与えるためにこの世に来られたのです。
アダムもまたイエス様のちょうど鏡のように対照的なひな型です。

こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」2:20〜23

 神様は男のあばら骨から女エバを造りました。エバとは命という意味のハバから来た言葉です。女は命を産み出すからです。このエバはキリストの花嫁である教会のひな型です。
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。

「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。エペソ5:28〜32

 さて、この後アダムとエバは罪を犯します。その時、神は救いの道を暗示します。

わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。3:15

ここで子孫という言葉は単数形です。すなわち一人の悪魔の子と、一人の神の御子の対決を預言されたのです。キリストは悪魔に勝利しました。しかし、悪魔はまだ生きています。それはへびの頭を砕いてもしばらくは生きているのと同じです。
この後、神様はアダムとエバに彼らが罪を犯した結果、恥ずかしく感じるようになった体に皮の衣を着せられました。

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。3:21

皮の衣を作るためには羊なり牛なりの動物が殺されます。ここにも私たちの罪を覆うキリストの贖いが表されています。この思想は聖書の一貫した思想です。罪の贖いのためには血が流されなければならないのです。その結果私たちは義とされます。この義という言葉にそれが表されています。義とは羊の下に我と書きます。羊の衣で覆われたアダムの姿です。キリストの贖いをまとった私たち人間の姿です。漢字はユダヤ人が作ったという説がありますが、これなどはその証明というべきものでしょう。それ以外にこのような文字を考えつく人々がいるとは思えません。
次にアベルの捧げ物にもその思想は表れています。

日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。 4:3〜4(口語訳)

ここは古来多くの人々がつまづいた個所です。「エデンの東」という本でスタインベックも神はカインの捧げものも省みるべきだったと主張しています。しかし、カインもアベルも神に礼拝をささげる方法をアダムから教えられていたはずなのです。それは血が流されなければ罪の許しは有り得ず、罪のままでは人は神に近づくことは出来ないということです。アベルは子羊の供え物をささげました。それは義を求める礼拝でした。
これは世の宗教と聖書の宗教の違いを表す個所です。神に自分の努力、労働、才能、奉仕をまずささげるという態度です。もちろんそれは尊いことです。しかし、その前に罪を処理しなければなりません。

こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。ヘブル9:22

 神は聖です。聖である方の元に行くには全く罪を清められなければなりません。それから初めて礼拝があり奉仕があるのです。だから世の全ての宗教は神の前に受け入れられないのです。クリスチャンと自称する人々でもこれを理解してないことが多いのに驚きます。
キリスト教は十字架をシンボルとしますが、それは血のシンボルです。良い行いや、努力では決して神に受け入れられないのです。血によって清められてこそ初めて神への奉仕が始まるのです。