メッセージ 2001・1 ・21    小 石 泉 牧師

旧約聖書の神と新約聖書の神

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
創世記1:26〜28


 神様が天地を創造され、人間に世界を任せられました。そして人間を祝福されエデンの園に置かれたとき、人間は神と親しい交わりをしていました。そのことは人間が禁じられた木の実を食べて罪を犯したときの情景にかすかに表れています。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」3:8〜9

「そよ風の吹くころ……」という何気ない表現の中に神と人との暖かな懐かしい交わりが示されていないでしょうか。その日まで、人間は神の訪れを心待ちにし、神の声を聞くと喜んで駈け寄ったことでしょう。それはちょうど幼い子供がお父さんの帰るのを待っていて、その音を聞くと玄関まで走り出るようなものです。しかし、その日から彼らにとっては神の訪れは恐怖になりました。これも私たちが何か悪いことをしてお父さんの帰るのをびくびくしながら待つようなものです。この日から人間と神の間には断絶が生まれました。神と人との間には罪と言う、ぎすぎすしたひび割れが生じたのです。
旧約聖書全体に神と人との関係が恐怖や戒めによってつながっているように見えますが、それにも増して人間は神から離れどんどん罪の深みに入り込んで行くのを見ます。
さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。6:1〜3
カインによるアベルの殺害に始まり、人間は罪を犯しつづけます。神様はこの後、ノアに御自分の願いを託して洪水によって人類を滅ぼします。その後も人間は神との正しい関係を持つことが出来ずバベルの塔を築き、さらに神から遠ざかります。しかし、神様はアブラハムと言う忠実な僕を得、またイサク、ヤコブによって一つの民族を通して人間へのメッセージを送りつづけます。このヤコブがイスラエルと呼ばれ今日のイスラエル、ユダヤ民族が登場します。そしてヤコブの子ヨセフによってエジプトに移住し、その後400年間奴隷として扱われます。やがてモーセによってエジプトを脱出し、シナイ山で神と親しく会います。

三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。ーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。出エジプト19:16〜19

この光景、この体験がイスラエル・ユダヤ人の神の原点となったに違いありません。彼らは恐ろしい光景に震え上がったのです。エデンを追われたアダムとエバのように、それは厳粛で荘厳で正義の畏敬すべき神の現れでした。以来、イスラエル人にとって神は常にそう言う方でした。約束の地カナンに入った後も、その基本は変わらなかったのです。それにもかかわらず彼らは大胆に神を捨て偶像崇拝を繰り返しました。これは今の我々にはちょっと信じがたいことですが、実は今でも同じ事が行われています。
さて、私は数ヶ月間、旧約聖書ばかりを読んでいました。いつのまにか私はユダヤ人的な心になっていたのでしょう。久しぶりに新約聖書を読んだとき、愕然としました。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11:28〜30
 「嘘だ! そんな神なんて私たちの信じている神とは違う!」ユダヤ人ならそう言うでしょう。それはあまりにも旧約聖書の神とは違っていました。どの神が私たちを気遣って「疲れていますか」とか「重荷を負っていますか」などと心配してくれるでしょうか。「あなたがたを休ませてあげよう」!などと優しく声をかけてくれるでしょうか。日本にある八百万の神々の一人でも私たちに心を寄せてくれるでしょうか。いや、それどころか私たちの罪のために、自らを犠牲にして十字架の苦しみと屈辱を受けてくれるでしょうか。
私たちクリスチャンは実にそこから始まっています。愛と慰め、優しく、慈愛に満ちた神の御子の言葉から始まっています。だからなんとなくそれが当たり前になって、それほど感謝も喜びもなく信仰を続けていませんか? もちろん救われた当初は感謝感激の日々を送りますが、いつのまにか慣れてしまってそのような感激も薄らいでしまうのではないでしょうか。
もし昼間しかない国に生まれたら昼間の太陽の明るさは当たり前になって感謝も感激もないでしょう。しかし、夜があり昼があるとき昼間の明るさ、太陽のありがたさが良くわかるのです。旧約聖書の中で神の厳しさ、正義の強さ、正しい畏れが示されていなかったら私たちは神を誤解するでしょう。イスラエルユダヤ人に示された神の厳粛なお姿があってこそ新約聖書のイエス・キリストの恵みとまことがわかるのです。ヨハネはそのことを言っています。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネ1:14

 イエス様は愛と癒しを持ってこられました。それでユダヤ人は信じることが出来ませんでした。もう一度シナイ山を震わせる厳粛なお姿で来られたら信じたかもしれません。しかし、神様は人間との和解の使者を送られたのです。裏切りつづけ、背信と反逆をしつづけるイスラエル人に代表される人間に対して許しと癒しを持ってこられました。この方の一生は許しと癒しでした。それは十字架の上まで続きました。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。ルカ23:34

 神がエデンの園に来られたとき、そのお姿は人間にとって愛と慰めでした。もう一度地上に来られて歩まれた時、同じようだったのは当然と言えば当然です。その間に人間は神の御性質を学んだのです。もう間違えることはありません。私たちは神御自身の尊厳と優しさを両方とも知っています。これがキリスト教と言うものなのです。