メッセージ 2001・ 1・ 7      小 石 泉 牧師

勝利の方程式

“サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人を迎え撃つために戦いに出て、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。ペリシテ人はアフェクに陣を敷いた。
ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣ぞなえをした。戦いが始まると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の陣地で打たれた。民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。」そこで民はシロに人を送った。彼らはそこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱をかついで来た。エリのふたりの息子、ホフニとピネハスも、神の契約の箱といっしょにそこに来た。主の契約の箱が陣営に着いたとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。ペリシテ人は、その歓声を聞いて、「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう。」と言った。そして、主の箱が陣営に着いたと知ったとき、ペリシテ人は、「神が陣営に来た。」と言って、恐れた。そして言った。「ああ、困ったことだ。今まで、こんなことはなかった。ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれよう。これらの神々は、荒野で、ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ。さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。さもないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」こうしてペリシテ人は戦ったので、イスラエルは打ち負かされ、おのおの自分たちの天幕に逃げた。そのとき、非常に激しい疫病が起こり、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。神の箱は奪われ、エリのふたり息子、ホフニとピネハスは死んだ。
 その日、ひとりのベニヤミン人が、戦場から走って来て、シロに着いた。その着物は裂け、頭には土をかぶっていた。彼が着いたとき、エリは道のそばに設けた席にすわって、見張っていた。神の箱のことを気づかっていたからである。この男が町にはいって敗戦を知らせたので、町中こぞって泣き叫んだ。エリが、この泣き叫ぶ声を聞いて、「この騒々しい声は何だ。」と尋ねると、この者は大急ぎでやって来て、エリに知らせた。エリは九十八歳で、その目はこわばり、何も見えなくなっていた。その男はエリに言った。「私は戦場から来た者です。私は、きょう、戦場から逃げて来ました。」するとエリは、「状況はどうか。わが子よ。」と聞いた。この知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、民のうちに打たれた者が多く出ました。それにあなたのふたりの子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその席から門のそばにあおむけに落ち、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。彼は四十年間、イスラエルをさばいた。 彼の嫁、ピネハスの妻は身ごもっていて、出産間近であったが、神の箱が奪われ、しゅうとと、夫が死んだという知らせを聞いたとき、陣痛が起こり、身をかがめて子を産んだ。彼女が死にかけているので、彼女の世話をしていた女たちが、「しっかりしなさい。男の子が生まれましたよ。」と言ったが、彼女は答えもせず、気にも留めなかった。彼女は、「栄光がイスラエルから去った。」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは神の箱が奪われたこと、それに、しゅうとと、夫のことをさしたのである。彼女は、「栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから。」と言った。”Tサムエル4:1〜22


少し長いですが、読んだだけで判るところです。イスラエルの敗北の記録です。これはイスラエルがエジプトから脱出して40年間の荒野の生活の後にパレスチナに定住したころの話です。イスラエルには王が無く時には神の霊によって選ばれた「士師」が出ることもありましたが、多くの場合は各々勝手に生活していました。
“そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。”士師21:25 とある通りです。
 強いて言えばここに出てくる祭司、特に大祭司が政治的に管理していたのですが、それほどはっきりした制度ではありませんでした。生活が安定したころイスラエルは神に従うことを忘れていました。そのころイスラエルに神との仲介をする霊的な指導者はいませんでした。しかし、神様はサムエルという器を用意しておられたのです。

“少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。”Tサムエル3:1

 イスラエルはもともと神に忠実に仕えるなら祝福され、神に聞き従わないならのろわれるという約束を与えられていました。

“見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。”申命記11:26〜28

しかし、彼らが神に忠実で無くなった時、神は異邦人を強くしてイスラエルを打ちました。これはその最初の大きな戦いでした。イスラエルはぺリシテ人に敗れたので長老たちはモーセの幕屋からその至宝、契約の箱を持ってこようと提案したのです。それは荒野の中で常にイスラエルに勝利をもたらした主の臨在の象徴でした。「契約の箱さえあれば、神の臨在さえあれば我々は勝てるのだ!」しかし、結果は大敗北。何と契約の箱はぺリシテ人に奪われ、放埓の限りを尽くしたエリの息子たちは殺され、それを聞いたエリ自身までが死んでしまいました。さらにピネハスの妻は子供を産むと死んでしまいました。彼女の最後の言葉は「イカボテ」イスラエルの栄光は去ったでした。
私たちはこの原因を容易に悟ることが出来ます。契約の箱が勝利をもたらすのではないのです。イスラエルの不従順が取り去られることが勝利の答えなのです。彼らは勘違いをしているのです。彼らは誤った解を勝利の方程式に入れたのです。本当の答えは、イスラエルの民が神に対して忠実に、真実に祈り求め、神を愛し、神と共に歩むことを喜びとするなら神は勝利を与えたし、はじめからそのような災難を与えなかったでしょう。
私は今、この同じ勘違い、同じ誤りが日本のキリスト教会にあると思います。契約の箱があれば、主の臨在があれば、リバイバルがあれば、誰か偉大な器が来れば、どこかの大きなリバイバルの火種をもらってくれば、日本の教会は復興するだろう。私の教会は栄えるだろう。そんな勝利の方程式の解を求めて右往左往しているのが日本の教会のように思えてなりません。
この30年間、ありとあらゆる有名な器、他国のリバイバルのニュースが日本の教会特にペンテコスト派を覆いました。韓国に大きなリバイバルが起これば韓国、次にブラジル、アルゼンチン、トロント、ペンサコーラ、このごろではスミストンだそうです。
覚えきれないほどの人と地域のニュースが押し寄せ、沢山の大会が開かれ、大金が費いやされ、牧師先生たちはツアーを組んで世界の至るところに出かけて行きました。私もいくつかの場所に行き、大会に出席し、時には委員会に名を連ねました。しかし、教会は成長したでしょうか。群れをなす洗礼者は出たでしょうか。悔い改めが町を覆い、人々が涙を持って教会に駈け寄って来たでしょうか。答えはノーです。むしろ減少しました。
イスラエルにとって、契約の箱が勝利を与えるのではありませんでした。一人一人の神との真実な関わりが勝利をもたらす方程式の解でした。それは今も昔も変わりません。

“その日、エリは自分の所で寝ていた。・・彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。・・神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。”Tサムエル3:210

勝利の方程式の解は、神の御声を聞くことです。
 サムエルに現れた神はサムエルの名を呼びました。しかし、幼いサムエルはエリが呼んでいると間違えてエリのところに行きました。3度目にさすがに鈍いエリもそれが神の御声であることを悟り「聞く」ようにと教えました。神の御声を聞き、その御旨を悟ることが、まず、第一に必要です。どこかに出かけて行かなくても今、ここで主に聞くのです。
神に真実であることです。
 ダビデが大きな罪の後でも神の信認を失わなかったのは、彼がいつも神に真実だったからです。私たちは決して神の前に完全ではありえません。そんなことは、神はとっくにご承知です。大切なのは神に真実であろうとする心の態度です。サムエルが用いられたのは母ハンナの真実な信仰の遺産だと言えます。これは第一サムエル記一章と二章を読むと判ります。(長いので省略)実にゆりかごを動かす手は世界を動かすと言う通りです。
神に忠実な(喜んで従う)ことです。
これは真実と同じ事のように聞こえるでしょうが、真実と言うのは心の態度であり、忠実と言うのはそれを喜んで実行に移すことです。イスラエルが申命記に忠実に従ったら、ヨシュアやカレブのように神に従うことを喜びとしたら、契約の箱を持ってくる必要も無かったのです。
神に仕えることは難しいことではありません。特に日本のクリスチャンはきまじめで無理をします。その結果、人間的な努力を評価することを競うことになります。それはわざとらしい従順、自慢になるのです。そうではなく喜んで仕えることが大切なので。
契約の箱はダビデによって、喜びの踊りの内にシロからエルサレムに運ばれました。ダビデは歓喜のあまり衆人の中で踊ったのです。人々も喜びに沸き立ちました。ダビデの喜びは全ての国民にパンと肉と干しぶどうを与えるほどでした。(T歴代史16章)今年、私たちは喜びと感謝をもって主に仕えましょう。勝利の方程式は解かれましたから。