メッセージ 2000・12・24    小 石 泉 牧師

闇と光とクリスマス

“初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。”創世記1:3 
 神が世界を創造されたとき世界は闇でした。しかし、そこに神は光を創造されました。その光はもちろん物質的な光でした。世界は霊的な光を求めていました。
“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。”ヨハネ1:1〜5


今から2000年前にイエス様がお生まれになりました。世界は霊的な光を得ました。
“やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。”イザヤ9:2  “起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。”イザヤ60:1〜3
 イエス様は光として世界に来られ、神の栄光を表わされました。そして彼に来る者すべての人に神の栄光を与えました。だからそれらの人々もまた光として輝きました。

“あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。”マタイ5:14 〜16


 この方は、はじめに来られたときには預言の一部だけを成就されました。

“ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。”イザヤ9:6〜7

 この預言の前半は文字通りに実現しましたが、後半はまだ実現していません。そこには偉大な神の遠大な御計画があったのです。

“イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」”マタイ12:35〜36

 イエス様は御自分がやがて取り去られると言うことをあらかじめ告げられました。イザヤも不思議な言葉でそのことを預言していました。

“ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」”イザヤ21:11〜12

 「朝が来ます。また夜も来ます。」(口語訳)義の太陽である神の御子は一度この世に来られました。本当なら朝が来ますという希望のメッセージで終わるはずなのに夜も来るとあります。確かに朝は来ました。しかし、夜もまたやってきました。御子は十字架にかかり罪の贖いとなられました。それは御子を信じるものを神の裁きから救うためでした。

“御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。”ヨハネ3:18〜21


しかし、前のイザヤの預言に「もう一度来るがよい」とあるのを見逃さないでください。イエス様のお仕事はまだ終わっていません。キリスト教と言うのは未完の宗教です。人間個人の救いに関しては完成されています。しかし、世界の救いはまだ実現していないのです。世界の人々は遠いクリスマスを祝っていますが、もっとはるかに近いキリストの再臨には心を向けません。それは恐らく数年から数十年という単位で間近に迫っているのです。第二のクリスマスはみどりごとしてのイエス様ではなく、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」として現れるのです。その時こそ私たちは御子の真の御姿と神の偉大な力を知ることでしょう。